- 作者: 外山滋比古
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1986/04/24
- メディア: 文庫
- 購入: 91人 クリック: 844回
- この商品を含むブログ (734件) を見る
この本が最初に発表されたのは二十五年前ですが、それだけの時を超えてようやくぼくらはこの本に書いてあるような「考える」ことについての理論を「だからいつもそういっていたじゃないか」という「当たり前」の枠の中に押し込めることができるようになりました。だから「当たり前」っていうのは、「普段自分たちが出来ていると思い込んでいること」なのではないでしょうか。「今更言われんでもわかってるよ!」みたいな。しかし、それは本当にわかっているのかねという話ですよ。本書はエッセイ形式で、話題も多岐にわたるので一気に語ることは難しい。なので、気になったセンテンスごとに何か適当に書いていきます。
考えるのたとえ話
最近考えるとはどういうことなのか、というような本ばかり読んでいますが、人それぞれ「考える」とはどういうことなのかのたとえ話が違っていて、非常に面白いです。言っていることはみな同じなのですけれどね。たとえばこの「思考の整理学」では、考えることができる人と、学校の勉強ができる人をそれぞれ「飛行機」と「グライダー」にたとえています。受動的に知識を得るのが「グライダー」、自分でものごとを発明、発見するのが「飛行機」の人間になります。「思考の整理学」は別にすべての人間に「飛行機」タイプになれ! といっているわけではなく、「グライダー兼飛行機」のような人間になれといっているのです。しかし二十年前だからそういうことが言えたのであって、今はどちらかといえばグライダー能力よりも圧倒的に飛行機の能力が必要だと思います。なぜなら、グライダーのように風にのって目標の地点に辿り着くような「目標」が今の世界には存在していないからです。そんな世界だからこそ、こういう「考える」ための「入門書」が売れているのでしょう。みんななんだかんだいって、切羽詰まっているのかもしれません。
セレンディピティ
だいたい、学生というものは、授業、講義のねらいのするところには興味を持っていない。年がたてば忘れてしまうのは当然。ひょっとすると、はじめから、そもそも、頭に入っていないのかもしれない。それに比べて脱線には義務感がともなわない。本来は周辺的なところの話である。それが印象的でいつまでも忘れられないというのは、教育におけるセレンディピティである。教室は脱線を恥じるには及ばない。
授業では脱線した話の方が記憶に残るという話で、読んでいてなるほどそうだなあと感心しました。そして、なぜ記憶に残るのかといえばここでは「セレンディピティ」のおかげだ、と言っているのですね。セレンディピティは簡単に言ってしまえば「目的としていなかった副次的に得られる研究成果」とかそんな感じなのですが、身近な例で説明すると「試験が眼の前にせまっているのについつい普段読まない本なんか読んでしまって、それがきっかけで新しい分野への関心が出た」とかそういうのもセレンディピティです。もちろん脱線しまくる話がいいというわけでも、試験前に本を読みまくることがいいわけでもないでしょう。普段していることと、「たまにズレる」からこそ妙に印象に残ったりする。今までずっと見てきたものから、ふいっと目をそらしてみる。だからぼくらは、授業をするんだったら脱線をたまにはしてもいいし、試験前やら〆切前には本を読んだり、別のことをしてもいいんです。そこにはセレンディピティがあるのですから。