基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

 初めての東浩紀ですけれど、これは凄い。ところで(いきなりところでかよ!)最近は結構「考えること」についての本を読んでいたのですが、その理由はシンプルに「考えなきゃ!」と思ったというのもありますが、「考えたいことができた」からの方が理由としては大きい。そしてその「考えたいこと」がなんなのかというと、「新しい批評の形とはなにか?」みたいなことです。何も文芸批評に限った話ではなくて、むしろゲームやアニメの方面の話です。もうちょっと「ゲーム」や「アニメ」ならではの語り方があるのではないか? ていうかゲームやアニメはもっともっと面白く語れるはずだ!! という外野の側からの無責任な憤りがあったわけです。ぼくはゲームとかアニメが特に好きなわけじゃないんですけれどね、距離が離れているからこそうーん、と思うこともあるわけであって。

 長々となんでそんな話をしたかというと、本書が「新しい批評の形」を提示しているからですね。おもに文芸評論において、という限定はつきますけれど、こういうのを待っていたのですよ。「新しい批評の形」とは何かと言えば、まず従来の批評の形から行きますけれど、ここまでの文芸評論の主流は自然主義的な読解だったわけです。小説に暴力が描かれれば少年犯罪の時代を、セックスが描かれればセクシュアリティの揺らぎを、といちいち現実とリンクさせる。なぜこんなことが起っていたのかと言えば、文学と現実が透明性で結ばれていると信じられていたからです。文学は現実をそのまま映し出せるという信仰ですね。

 しかし文学が透明であるという前提は近年成り立たなくなってきました。それが本書の題名にも入っている世界のポストモダン化です。ポストモダンが何かというのを簡単に東浩紀の言葉を借りて説明すると、「大きな物語の力が社会的に衰えた」時代といえます。ほんとはもっと複雑なのですけれども、別にそれだけ知っていれば議論は追えますので。で、大きな物語とは何かと言えば、社会に存在する構成員たちが共有する価値観みたいなものです。良い大学に入って、良い会社に入って、裕福になって一生を過ごすみたいなのが素晴らしい、というみんなが持ってる価値観ですね。それが崩壊してしまったと。「みんな一緒」から個人の自己決定や生活様式多様性が積極的に肯定されるようになった。それがポストモダンの時代であり、それとほぼ同時期に生まれたのがキャラクター小説、いわゆるライトノベルと呼ばれる作品群です。

 キャラクター小説の出現は新井素子にあると、大塚栄志は言います。それはなぜかといえば、今までは現実を自然主義的な描き方で書くものだけが小説として存在していたのに、新井素子の小説は「ルパン三世のようなものが描きたくて描いた」小説だったからです。現実→小説だったのが、現実→漫画・アニメ→小説になった瞬間でした。そしてその瞬間に、文学の透明性というのもまた無くなってしまったのですね。ここで最初の話しに戻るのですが、今までの自然主義的な語り方ではもはや現代の文学は語れないわけです。なぜなら自然主義的な語り方で語れる根拠となっていた文学の透明性はなくなってしまったわけですから。

 そんな状況で必要になってくるのが、自然主義的、直接的な読解と違い、物語と現実のあいだに環境の効果を挟み込んで作品を読解するような、複雑な方法です。東浩紀はそれを「環境分析」と読んで、実際にそのやり方を用いて作品のいくつかを分析しています。自然主義的な読解は、現実との問題と作品を絡めて論じるだけですので、その批評は作品内で完結しています。対して環境分析では、作家がその物語に込めた意図、主題とはまた別のレベルで、物語がある環境に置かれて流通するという作品外的な事実そのものが、別の主題を呼び込んでくると考えます。そういうわけで本書は、社会と物語のあり方を環境を通じてつなげてしまおう、そういう試みを持った本であります。非常に刺激的でありました。