基本読書

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日本辺境論

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 「日本人とは何者なのか」「世界でどういう立ち位置を持っているのか」、という問いに対して「日本人とは辺境人である」と明瞭簡潔な答えを出し続けるのが本書であるといえます。どういうことかというと、日本は辺境であって日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる、といって数々の事例を引きながらそれだけを言っている訳ですね。簡単に本書における内田樹の主張を要約すると、以下のようになります。

 「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の真理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。」

 上に書いたような心理状態は、よく読めば心あたりのある方もいるのではないかと思います。日本はこのままではダメだ、という論調で語られることが日本でもよくありますけれども、その際に指標となっているのは「〜〜と比べて日本は〜〜だからダメだ」という相対化によってしか日本は日本を語れていないではないかというわけですね。それが正しいとして話を先に進めますけれども、じゃあどうして日本は常に文化的劣等感につきまとわれているのか、という問題が起こります。そしてこの問題に対しても「他国は〜〜であるから」という論調で語れないわけですけれども、そのフォーマットにのっとって答えるならば「はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境民族のひとつとしてスタートした民族との違い」であるのではないかといえます。

 それがどういうことかというと、たとえばアメリカの新大統領オバマさんの就任演説に表れているといいます。オバマ大統領がそこでした演説は、かつてアフリカから来た奴隷たちも、清教徒も、西部開拓者も、わずかばかりの身の回りのものをカバンにつめて大洋をわたりアメリカという国を「私たちの為に」過酷な労働に耐えて作り上げてきた、人種や宗教や文化の違いを乗り越えて「アメリカ人」たちは最初の世代からの「贈り物」を受け取り、それを後代に伝えていかなければいけない、それをやるのが「アメリカ人」である。という「国民の物語」がアメリカには存在する。日本にはそれがない。日本は別に思想を持って作られた国ではありませんから、立ち返るべき「根本思想」がないわけです。ぼくたち日本人が「よその国はこうであるけれど、我が国はこうで、だから我が国はこうしなくてはならん」という形でしか日本を語れないのは、そもそも「日本という国に成立過程がないから」なのです。

 「成立過程がない」日本のことを内田樹先生は「虎の威を借る狐」という言葉で表現しています。たとえばぼくたちのほとんどが「日本の二十一世紀の東アジア戦略をどうすればいいか?」などと外国の人から問われても、即答することができません。「自分の意見」を聞かれても答えられない。どこかの社説に書かれていることや、テレビでわめき散らしているような自称知識人の方々が言っていることをそのままコピーして言う事は出来るでしょうけれど、やっぱり「自分の意見」はいえない。それは「そういうこと」を自分自身の問題として考えたことがないからです。そういう難しいこと、政治やら日本の在り方みたいなものは、国の偉い人や頭の良い人が考えればいいと思っている。リバタリアン的には「クニガキチント症候群」とでもいいましょうか。こういう「難しいことは偉い人が考えればいい」というまるなげの日本人性というものは「リバタリアン宣言/蔵研也」に詳しいです。それはすっとばして。

 そういう他人の意見をさも自分の意見かのように言うことしかできないから「虎の威を借る狐」ということになってしまう。「あなたはどうしてそういう意見を持ったのですか?」と言われても、狐たる日本側としては答える言葉を持たない。世界の現場で日本人が陥っている現状はまさに↑のような問いにまったく答えられていない状況ということは普通にニュースを見ているだけでも十分よくわかる。海外から日本がナメられているとよくいわれますが、その理由は日本がダメだからというよりかは上記のような「意見の根拠」がないことによるネゴシエーション不可能性の問題なのではないかと本書ではいいます。ある論点について「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」をしたのか、自説を形成するに至った過程を語れる人とだけしかぼくたちはネゴシエーションできないのです。なぜなら「過程を語れない人」というのは、「なぜそうなっているのか」がわからないので「状況を変えることが出来ない」からです。虎の真似をしている狐に「ちょっとあなたにとっても不利益だから獲物を取りすぎるのやめてくれませんか」と言ったとしても、狐はなぜ虎が獲物をその分量とっているのかわからないのでどういう答えも出すことが出来ないのです。だから日本は海外と「ネゴシエーションすることができない」

 と、ここまでが大体前半部の「日本辺境論」です。後半はいつものレヴィナス老子や多田師匠の教えを発展させた形の「機の思想」で、一応関連はあるもののもうまったく別の話と捉えた方がいいのでもう書きません。「機の思想」は後に出るはずのレヴィナス三部作の最終巻「レヴィナスの時間論」への架橋的命題となりうるような気がする、といっているので、ぼくは今から非常に楽しみにしているのです。「機の思想」とは一言で言ってしまえば「天下無敵とは何か」に対しての答えにあたるもので、これが非常に面白い。まあこんなところで。