基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

15×24link〈2〉大人はわかっちゃくれない

 「死についての物語」である15×24に、今回新たな視点として導入されたのは、「自殺したければ自殺すればいいじゃない。それぐらいつらいっていうことでしょ」という意見。これは確かにまったくその通りのように思える。たとえばぼくが学校で壮絶にイジメられていたとして、小学校3年生だとしよう。そしたら、あと3年はイジメられることはほとんど確定しているように思えるだろう。「耐えられない」と思うかもしれない。そして、「耐えられない」と思ったが最後、「自殺」という選択を取ってしまう事も、当然あり得ることのように思う。親に言えばいいじゃないか、学校を変わればいいじゃないか、先生に言えばいいじゃないか、という選択肢も当然ある。しかし何もイジメに限らなくたって、世の中の悩みごとには大抵わかりやすい「解決策」が用意されているものである。が、実際のところわかりやすいものに限って選択されにくい。だから基本的に「悩んでいる」状態というのは、「選択肢はあるけれど、どれも選びたくない」状態とほとんど同じである。たとえば親に言ったら悲しませる。先生にいったからといって転校させてくれるわけではない、ましてやなんとかしてくれるなんて思えない。イジメ問題に関わらず、そう言う時に死にたくなる。少なくとも、未来に起こりえるつらいことと楽しいことの比率が圧倒的につらいことの方に偏っていた場合、死んでしまった方が楽だ、という計算は可能なように思える。

 しかしまあ、実際問題未来に起きることなんて誰にもわからないのだ。一秒後に起きることすら誰にもわからない(たぶん)。だったら、明日イジメが無くなるかもしれないし、無くならないかもしれないし、弱くなるかもしれないし、まあどうなるかわからないけれど、そういう「どうなるかよくわからなさ」の中にいることというのが、いきていることの重要な要素の一つなのである。だって、ほんとに誰にもわかんないし。それを自殺するとということは、「俺/私 には未来がわかりきっている。絶望しかない。だから死ぬ」というスーパー預言者発言に他ならないんじゃないかなーという気がするんですね。だから、正直いって逃避のための自殺はどうなんだろうと思います。ただこれはあくまでも、逃避っていう目的の「手段」の為の死がどうだかなーといっているだけであって、たとえば「死」がどんなものか知りたいから「死ぬ」みたいな、なんだろ、単純に死ぬための死っていうのは、どう扱っていいのだろうなあ。

 って本論にまったく関係ない話を長々と。ちなみに15×24、一巻を読んだ時点だとあまりのめり込めてなかったのですが、二巻は良かった。やっぱり十五人の人間を視点を変えながら、一巻で掘り下げるのは無理があったと見えて二巻目にしてようやく各キャラに愛着が沸いてきたというかなんというか。特にミツハシと枯野くんと亜希穂ちゃんと歩乃果ちゃんの視点パートが面白くて、っていうか正直それ以外の方々は今のところ興味をひかれないのですが、多分これからですね。今挙げた四人も、二巻でとくに焦点があたっていた方々ですし。しかしまいっちゃうのは、自殺しようとして、周りの人間に追いかけられまくってる徳永くんですよ。めっちゃ大勢に追いかけられて、アクロバティックな逃げ方(ポールを蹴って車椅子少女を飛び越えるみたいな)までして死にたいのか、と思って思わず笑ってしまいました。そんなにアクティブな自殺志願者がいるかよ! って。