- 作者: 冲方丁
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 単行本
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作中でも言われますが、よく考えてみれば「暦」というのはなくてはならないものです。未来は不確定です。明日、明後日、何があるのか、何が起こるのかさっぱり誰にもわからない。そんな一寸先は闇ともいえる世界の中で、「暦」は一年後も百年後も「依然として世界はそこにある」と約束してくれる存在なのです。百年後は2110年です。二百年後は2210年でyそう。そしてそれを保証してくれるのは、天体の動きでありその動きを分析する数学の力なのです。数学によって天体の動きを予測するというのは、ある意味地上にいながらにして天体と接することができる唯一の手段なのではないかと。読んでいて「うおおおすげええこりゃSFでねーか!!」と思ったけれどもしかしまあそんなこたあないですよな。ちゃんとした江戸時代の「時代小説」でありました。
一番良かったのは、「ライバル」の存在だったかもしれないです。春海を突き動かし続けてきたのは、算術に関してまったく歯がたたない「関」というライバルでした。同世代に生まれたということで、非常に意識するのですがあまりにも実力差がありすぎるために最初から最後まで「ライバル」でありまた「師」でもあるという特殊な関係。しかしその天才性故に、どこかたった「独り」であるように描写されています。誰にも理解されることのない孤独というのは天才のお約束のようになっていますけれども、「ライバル」である春海にはそういったところがない。どこか抜けていて、そして抜けているが故に色々な人から助けられ、愛されているような存在です。そしてそのおかげで、大勢の人からたくさんの野望を引き渡されて、大勢の人から手助けを受けて、大勢の人の死を見届けて死んでゆく。しかしその大勢の人の手助けを借りて行った「改暦」の事業は、孤高の天才であった「ライバル」関の事業を上回る成果をあげる。人と何かをやるっていうのは、大きなことを成し遂げるためには必須であるかとは思いますけれども、その分色々気苦労も多いものだなと思います。仲が良い人がいっぱいいればそれだけ別れも多い。
テスタメントシュピーゲルとの相関
はて、そういえばほとんど同時発売の「テスタメントシュピーゲル1」のあとがきにはこんなことが書いてありました。いわく『天地明察』と『テスタメントシュピーゲル』は完全に地続きで、まるで一つの作品であるかのように感じている…とか。そういえば、まず構成が似ております。これに用語が付いているのかは知りませんが「冒頭に物語的に最後の部分を持ってくる」手法が使われています。最近だと「あなたのための物語」とかでもそうですね。この手法にどんな効果があるのでしょうかねえ。読んでいる間は確かに、最初の鮮烈な場面があり、そこに確かに向かっている現状を把握して、どきどきわくわくするのですが、しかしそれってある種のネタバレのようなものではないですか。読んでいるこちらとしては、「あるべき未来へと向かっていく」という運命を感じずにはいられません。そして読んでいる途中で、ここからどうやってあの場面に辿り着くのだろう? と常に疑問に思いながら進むことになります。
そして、どちらにも共通しているのは「確定している未来を突き破って進む意志」であったりします。多少ネタバレになってしまいますけれども、「天地明察」の冒頭は「改暦の候補が三つある状態で、春海の出した暦が採用されるか否か」というその瞬間を、今まで歩んできた二十何年かの改暦までの道のりを振り返る回想で始まっています。対して「テスタメントシュピーゲルでは、「涼月(主人公)が最愛の人を亡くし、自分自身自殺しようとしている」ところから始まっている。しかし、両作品とも一番最初に提示された未来までたどり着き、そしてそこで悲劇的な目に会うにも関わらず、そこを突き抜けて乗り越えようとしていきます。冒頭に示された部分は完全に終わりの部分ではなく、終わりの一歩手前なのです。だから・・・どーしたんだ? しかし「地続き」であるというのは単純に相関関係を表している訳ではなく、変化でもあるわけで。「ライトノベル」は終わり、また別の何かが始まる、そのスタートが「天地明察」なのでありましょう。