基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

知識が邪魔になる時もあるという話

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

 東浩紀氏の『クォンタムファミリーズ』を読了した。何か書こうと思ったのだけれども、何を書いていいのかわからなかった。たとえば「批評家東浩紀が何故今小説家に転身したのか」とか、「批評家東浩紀を前提としたならばそりゃいくらでも書くことはある。クォンタムファミリーズは今までのサブカルチャー分野における批評のすべてが結集したような総決算的な作品であって、語る部分などいくらでもある。がしかし、「批評家東浩紀という知識を自分の中から消し去ることが出来ない以上、純粋に「小説家東浩紀の部分がどこなのかじぇんじぇんわからないのだ。この作品を純粋に「小説家東浩紀之作品として読める人は幸せだと。批評家東浩紀を意識しながら読むのはまずいのかといえばそれはまずいとかまずくないとかじゃなくてうーん、不可逆性というかなんというか。知らない状態で読めれば知った後もう一回違った感覚で読めるけれども、知ってる状態から読んだらもう知らない状態では読めないよねっていう話で。それでぼくがなんで何を書いていいかわからないかといえばできるだけ「小説家東浩紀」の部分だけを書きたいのだけれども書けないよーーっていうあれで。まあどうでもいーんだけど。

 同様なことは伊藤計劃氏の『ハーモニー』を読んでいた時にも感じていた。『ハーモニー』ディストピアみたいな作品で、身体の中に調子を把握してくれるWatchMeと呼ばれる監視装置のようなものがあって、身体が不調になったらすぐに教えてくれる、つまり病気がほとんど駆逐された世界を描いている。しかしそんな中で、二人の少女はむしろ「痛み」を求めて──とかいう話だったと思うのだが、しかしそれを書いている伊藤計劃はもう長いこと癌で闘病中で、もうずーっと死ぬか生きるかの闘いを繰り広げているのだ。そして、『ハーモニー』を発表してしばらく後、死んでしまった。そんな背景を知って、『ハーモニー』を純粋に読めるかと言えばそれは否である。一体死にかけの伊藤計劃は、病院の中で何を考えながらこの世界を作り上げたのだ、とか色々考えてしまうし、作品を読む上で読者に与える影響が多々あるだろう。

 えーと、そう、だからぼくらは本を読むときに、「周囲の状況、知識の干渉を受けざるを得ない」のだ。だからどーしたんだ、という話を描きたかったのだが、うーむ…。知識の干渉を受けざるを得ないというのは別に核心的な話(伊藤計劃が癌で死んだとか)だけでなく、たとえばプログラマの専門家であるdankogai氏は『ハーモニー』に出てくるプログラム表現(そんなものがあるのだ)が気に食わなかったようだが、素人であるぼくはそんなことはまったく気にならなかった。この点ぼくは知識がないにも関わらず、「作品を楽しむ」ちうバトルの上では「素人であるが故に」勝っているといえるだろう。まあ、ぼくらは何かを読むとき常に何かに干渉され続けているのだ…だからどーしたという話はまた今度で。あー、たぶん「知識を意図的に忘れることはできるのか」みたいな話がしたいのだと思う。作家の橋本治はデビュー作の桃尻娘(女子高生だっけ? の一人称)を書いた時に、自分の今まで積み重ねてきた経験や知恵やらを全部高校生の頃の知識にまでリセットして、女になりきって書いたと言っていて、「そんなことできんのかい…」とぼかぁ驚いたのですよ。どうやってそんなことすんねん。あ、そーいや今度虐殺器官文庫化だそうです。ついでにラギッドガールも二月に文庫化だそうです。うれしいい

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)