- 作者: 田中ロミオ,山崎透
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/01/19
- メディア: 文庫
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人類は衰退しました、とは。
このシリーズについて、ここにきて簡単に説明すると、「人類が衰退してしまった世界で、そこに新しく台頭した「妖精さん」に、表紙のかわいい女の子が翻弄される話」である。妖精さんは知能レベルが3歳児ぐらいしか無いのだが、驚くべき技術力…というよりかは、魔法が使えて、3歳児の脳でもって魔法を使うので世界は愉快な方向へ行くのだ。妖精さんのいいところは、その所業が決して悪い方向へは行かないところである。人類に対して本質的な危害は与えない。しかし言うならば、そのぬるさこそが、人類を緩慢な衰退へと追いやっているといえるのかもしれない。
作品全体の雰囲気は、ふわふわしている。ふわふわって、なんじゃい? と疑問に思うだろうけれど、ふわふわとしか言いようがない。ほんわかといってもいいかもしれない。ホイップクリームのような口当たりだ。口に含んだらちょっと幸せになれる。なんでそんなにふわふわしているのかといえば、作品に出てくる人たちが、みんなふわふわしているからだ。妖精さんからしてふわふわである。「なのですー?」という感じ。表紙の女の子も、とっても不思議。性を感じさせないのと、名前が判明しないのとで個が曖昧なのである。今まではかなり透明な存在であったように思うのだが、今回その過去が少し明かされたことによってちょっとだけ近づいたかな。名前が明かされるということ、その人物の輪郭をよりくっきりと立たせる。個は名前から始まると言ってもいい。それはたとえば作家の西尾維新の代表作、「戯言シリーズ」の主人公、いーちゃんは最後まで本編で名前が明かされることはない。それは透明な存在、透明であるがゆえに不透明な存在にしたくて、あえて名前を表記しないことにしたんですというユリイカでのインタビューを読んでもわかる。個が立つと、対立が起こる。それがないからこその人類は衰退しました、なのかもしれない。この作品では、名前のついた登場人物がまったく出てこないのだ。以下五巻の書評
妖精さんの、ひみつのおちゃかい
自分から進んで孤独を求めるというのは、もっとも手軽な自己の精神の防衛手段であると同時に、もっとも自分の精神を傷つける手段であるとぼくは思う。「わたしはハブかれてなんかない。自分で選んでこういう状態になっているのだ」という論理的な強さを手に入れるのと同時に、「しかし本当は寂しいのだ」という事実に目を伏せなければいけないからである。そんな子が、友だちを獲得していくまでの話が、妖精さんの、ひみつのおちゃかいだったかもしれません。
そんな風に、他者をかたくなに拒絶する様子が書かれている前半部は痛々しいです。ぐさぐさと突き刺さります。ううむ。イタタタ。そんな状態が変わり始めるのは、妖精さんが現れてからです。やはりこの作品のふわふわ感は、妖精さんに担保されているのだなと思います。妖精さんがYとの接点を作り、そこから色々なことが良い方向に動き出します。この作品を読んでいて思うのは、ある種の壁を突破するのは、どこか極端な嗜好なのだな、ということです。誰からの接触もかたくなに拒んでいるお菓子ちゃんに、それでも粘り強く接触していく巻き毛ちゃんが、恐らくその容姿が極端に気にいったからだという変態的な嗜好が関与しているのが良い例というか。巻き毛ちゃんの粘り強い変質的な愛がなかったら、お菓子ちゃんの回復はもう少し遅かったでしょう。
妖精さんたちの、いちにちいちじかん
こっちも凄く面白いです。ゲームを、ゲームのまま小説で描写したらどうなるのかという実験みたいな短編です。ありとあらゆる物質を、本質を損ねることなくゲーム化、(ウィザードリィとか、インベーダーとかなんでもあり)してしまう驚異の妖精さんの道具がギミックです。元ネタのゲームがどれも一昔前のものばかりで、ライトノベルであるにも関わらず元ネタがわかるであろう対象年齢はかなり高めです。というかぼくなどはあまりゲームをしてこなかったので、インベーダーぐらいしか知りませんです。ドラクエ的なドットなども出てくるので、そのあたりはよくわかりましたけれども。まあ、この短編は読んでみないとわからないたぐいの話なのでこれぐらいで。ではでは。