- 作者: 神林長平
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1996/01
- メディア: 文庫
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人間の意識というのは一人一人違っていて、隣で座っているあの人も父親も母親も彼女も彼氏も考えていることが分からない今みたいな状況が一変して。
みんなの考えていることがすべてわかるようになって、そうしたら個性というものが消えて、一人はみんなのためにどころか一人がみんなでみんなが一人になる。「個性」が消えた世界が出現したとする。今までは生きるというのは闘いで、理解し合えない現実から対立が起こるのが現実だったけれども。そんな世界では全てが繋がってしまってもう対立は起こらない。そんな状況を起こそうとしたのが伊藤計劃の書いた「ハーモニー」で、「我語りて世界あり」はいうなれば「個性」が消えてしまった世界でそんなのおかしい! 人間には個性が必要だ! といって、「個性」を再び生み出そうと言う作品です。
この問題の面白いところは、「個性」が消えてしまう世界ではそれを「良い」とか「悪い」とか判断する個性も消えてしまうという事であって、だからそこは善悪の判断の届かない場所。この物語では、個性を復活させようとしますがそれはたまたまキイとなる存在が個性を得てしまったせいで、そりゃ個性がない世界で一人だけ個性を持ったらその世界は間違っている! と叫ぶのも当然の話なのです。たしかに個性を持って生きているぼくらからすれば個性がない、みんながみんな同じという世界はちょっときついよなぁー…と思ってしまう。ほとんど「死ぬ」のと同じですからね、自分が。
おかしなところは、「個性」がある人間と「個性がない」群体としての人間は本来まったくの別の存在、生き物であるはずなのに、なぜか「個性」がある人間から「個性がない」群体として進化、あるいは変化した結果として語られてしまうところにあるんじゃあないかな? と思います。蜂に向かって(余談ですけれども、ミツバチは群で初めて一個の知性になる良い例だと思います。アリとかもそうなのかなあ?)お前ら明日から個性を持ってそれぞれ好き勝手生きろよ? といっても「えー! そんなの困ります!」となるように、今まで個を持ってきた人間に「おまえら、明日から個性消して蜂のように生きろよ」といったらやっぱり「えー! そんなの困ります!」とそりゃあなりますよ。穏便な策としては、個がある時代に生まれてきた人たちは個があるまま死んでいって、新しい種として群体としての人間が生み出せるようになったらそっちはそっちで好きにやればいいじゃないかとかかなあ? でもそうすると新人類と旧人類で対立が起こりそうなのでやっぱりダメですね。うーむ。人間同士の思想のズレによる対立というのはずーーーっとあったものでだからこそずーーーっと書かれてきたテーマで、ぼくらがぼくらのまま対立を消す為に「ハーモニー」計画だとか人類補完計画だとかをやっちゃう気持ちは、よくわかります。
むしろぼくが読んでみたいのは、群体としての人間にも数量的に限界が来て、群体が二つになって、あるいは他の星から群体としての人間っぽいものが来て、アダムとイブになった! とかそんなぶっ飛んだ話が読みたいです。味方を変えれば群体も群体として一個の生物ですゆえ。もちろんそれだけで終わるはずがなく。群体同士が出会ってアダムとイブになってまた繁栄して個が生まれてちょっと増えすぎたなーつってまた群体になってまた(以下永遠に続く。