基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

マルドゥック・スクランブル―The Third Exhaust 排気

 読み終えたけどやっぱり面白かった。ギャンブルの場面の緊張感は小説だとは思えない出来だし、何より敵がいい。未来のバロットの暗示のようなベル・ウィングの、泥にまみれたギャンブルの世界で泰然とした生き方を貫くその姿勢とか。彼女の存在はもし続編があるなら、バロットを導く人になるかもしれない、などと思う。あとは第二の強敵、アシュレイの存在も素晴らしい! バロットはこの二人との勝負の最中何度か「学ばせてもらっている」という意味の発言をしているけれど、それはやっぱりそのままの意味で、精神面での学びをギャンブルという闘いを通じて行っていたのだ。対してボイルドがバロットに闘いの中で肉体、能力面、力の使い方全般を教えたのだろう。ギャンブルでの出来事を終えた後、そこで学んだことを戦闘で思い返しながら、一度は負けたボイルドに勝利するところなど、めちゃめちゃ感激した。このラストバトルは映画化された時の映像を必死に想像しながら読んだが、たぶん本当に映画館で見たら感極まって泣いてしまうだろうな。成長したバロットだけがいいんじゃなくて、ボイルドも同じぐらいかっちょよくて恐ろしいのだ。足が無くなったのに、重力の場を発生させる能力を使って足の代わりを果たしながらもバロットを迫撃してくるところとか、ほんとにこええんですよ。腕を無くしてもはや重力の場の力も半分以下になっても、それでもバロットの命を狙ってくるその執拗さ! いやいや、足が取れちゃったりしたら普通諦めるじゃないですか、その上、手まで無くなったら、体の半分がなくなって、それはもはや人間と呼べるのか? と自問自答してしまいますよ。でも前進するのをやめない。ほんとに恐ろしい敵だった。

 こうして見てみると、良い敵の存在はぼくが考える面白い物語の条件に必要不可欠なものであるように思う。物語の中で敵と認識されるものが出てきた場合、それは乗り越えられる壁なわけで、マリオカートのコースのようなものだ。いや違うな。まあ敵が出てきたら、こっちとしてはそれは乗り越えないといけないわけで、乗り越えないといけないのなら世界観を形作るのは「敵」なのだと思う。「敵」が出てくることで、「コース」が出来てしまう。いきなりマリオカートの例を持ち出したのは、そういうことなのだ。うまく例えられなかったけど。で、コースが一直線だったらそれはつまんないよね? っていう話で。敵が居て、そこに向かっていくだけで倒せるのだったらそんな事をする意味はない。この物語に一貫してあるのは、「戦い」だが、戦いが一人ではできない以上、相手が魅力的なのは絶対条件だ。本と読者の関係も似たようなものだろうと思う。本を読むという作業は、その本が持っているボテンシャルと読者の読みの力の共同作業である。えーと、だからなんだ? うん、ボイルドがすっごい素晴らしい敵であった、っていうことをめちゃくちゃ適当にぐちゃぐちゃに書きたかったのだろう。あとシェルも地味に良かった。まあいいや。最後にウフコックが、引き金のない銃になったのも良かった。何で良かったのか、それもまあいいだろう。おやすみ。