基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

サリンジャーが死んだ日、一つの物語が終わる。

 『ライ麦畑で捕まえて』『ナインストーリーズ』などで知られるJ.D.サリンジャーが死んだ。衝撃は大きかろう。それだけ影響力を持っている作家だったから。しかし、個人的なことを言えば、確かな喪失感はあるものの、しかし喪失感しかない。衝撃もない。ぼくもいっぱしに彼の全著作を読んだ人間であるし、強い影響を受けてもいる。かなり好きだ。だから悲しいかと言えば、まったくそんなことはないというのが正直なところで。自分の中でサリンジャーと言う作家と彼の書いた作品の数々がうまく結び付いていないのかもしれない。元々高齢で、ぼくが彼の作品にハマった頃には彼はもう森に引きこもって生きているのか死んでいるのかもわからない存在であった。そんなぼくからすれば、今更死んだと言われても、それ程の衝撃はない。ただ喪失感だけがある。

 ただ彼が森でひっそりと生きているらしい、というのは漠然とした情報ながらも何だかよくわからない勇気を与えてくれた。それがどんな種類の勇気かと言えば「そう言う人がこの世界に存在してもいいんだ」という勇気? 安心? としか言いようがない。大人気作家という地位を得たにもかかわらず、社会のしがらみからの孤立を選んで、森の奥でひっそりと暮らして、書いた作品を世間に発表せずに書きためて、そのまま死んでいく。そんな人もこの広い世界のどこかにはいるのだということが、少なくない人へ勇気を与えているんじゃないだろうかと思う。少なくとも、その理由はよくわからなくてもその事実でどこか安心することが出来た。でもその影響は、サリンジャーが死んだことによって完結したのだ。「孤立を貫き通した男、ここに眠る」という物語をみんながみんな自分の中で作り上げてきて、そして彼の死によってその物語は終わる。

 しかしそれにしたって、恐らく書きためられているであろう作品がこれから後に発表される可能性はなかなか高いように思う。いったいだれが、それを燃やせるって言うんだろう? 生前に「絶対に絶対に燃やせよなばかやろう!!」と言われていたとしても、なんだかんだいって死んでしまったら発表したくなってしまうに決まってる。書かれたとしてもそれが読まれなかったとしたら、その物語は存在しなかったのと同じである。なのでもし仮に作品が存在しないのだとしても、そんなことは発表しないでいてもらいたいと思う。存在したとして、発表するならそれでいい。ただもし発表しないならしないで、原稿は捨てないでほしいと思う。そうすれば、いつの日か発表されるという希望と共に生きていけるから。読むかどうかは別として。きっとそれがエピローグだろう。