基本読書

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押井守は「映画」だ、その理由──勝つために戦え

勝つために戦え!〈監督篇〉

勝つために戦え!〈監督篇〉

 押井守の『アヴァロン』に対して伊藤計劃は『押井守は「映画」だった』と表現していた。読んでいたその時はさっぱり意味が分からなかった。押井守=映画って、どういうことだ? どんな根拠、どんな理由があってそんなことを言っているんだ? 読んだけれども、よくわからない。というか本来それは観ないとわからないんだろうが、観てもよくわからない(おい そして、つい一カ月ほど前に出た「勝つために戦え! 監督篇」を読んでいたらどうも押井守自身も、「オレが映画だ」とかいう某ダブルオーのあの人みたいな自覚を持っているようなのだ。

 伊藤計劃はまずエヴァと対比して押井守を語った。エヴァンゲリオンが選択した映画的イデオロギーは、実はハリウッド大作のそれであったというのだ。いかに撮るか、いかに繋ぐか、映像は安心して見られるアングルとカッティングに収まっているし、音楽は盛り上げる部分ではちゃんと盛り上げている。エヴァンゲリオンは「安心」して楽しむことができる作品として創られたのだ。

 対して押井守は安心させなかった。『天使のたまご』の中では、カッティングやフレーミングによって時間を操作し、遅延をもたらした。男がナイフを振り回しても、川井憲次の音楽はゆったりと響き、戦車がガトリング砲をぶっぱなし、水族館の壁がガンガン削られていっても、ドラムも金管も一切鳴らなかった。エヴァンゲリオンとは真逆。

 映画を、夢と現実のあわいに広がる微睡みと捉える者にとって、押井守の映画は何物にも代え難い存在だった。──P302『伊藤計劃記録』

 伊藤計劃にとっての「映画」とは、どうも非常に微妙な位置に存在するものだったようだ。もっと言うと過剰な演出、気持ちが良いだけの安心された作りものであることがわかりきった世界などではなく、膨大なディティール、異世界そのもの、視覚的に感じられるその世界の空気、そういう「世界はそこにある」リアリティを感じさせる作品こそが伊藤計劃にとっての映画なのだ、たぶん。「安心」という意味においては押井守も同じようなことをいっている。

 例えばミュージックビデオなんかは、そういう映像の快感原則で成立してるけど、映画は快感原則だけでは成立しないんだよ。映像の快感原則をどこかで停滞させたり、裏切ったり、阻止したりすることで初めて映画になるんだよ。止まらないとダメなんだよ。お客さんをいい気持ちにさせてるだけだったら映画にならない。どこかで引きずったり、立ち止まらせたり、あるいは押しのけたりっていうさ、抵抗感があって初めて映画は映画足り得るんでさ。──P341『勝つために戦え! 監督篇』

 カティングやフレーミングとかいう単語をわたしは正直いって一つも理解していませんし、気持ちのよい映像というのもよくわかんないですけれども気持ちが良いだけではダメだ、というのはなんとなくわかります。「あー面白かった―!」というだけの映画は、観た瞬間から、頭に入ってきた瞬間から、同時に抜けていてしまう危険性をはらんでいるのです。

 なるほどわかった。決して安心させないのが押井守である。ということは、安心させないものこそが映画であり、それを表現できる人間こそが「映画」なのだ。……といえばそれもまた違うでしょう。安心させない、なんていうのはただの一技法であり、「何か」を表現するための手段でしかない。本質はもっと別のところ、技法を使って辿り着くその先へあるはずです。その点については押井守ゴダールを例に出して詳しく語っていたのでそっちを引用してみる。

 目の前で起こっているあらゆることを自分がどう映画にしていくのか、自分の中で映画にどう仕上げていくのかという手つき。それがある意味で言えばすごく自然体なんだよ。ある時代的なテーマがあって「それをどうやって映画作品にしようか」とか「どうやってアピールしようか」とかそういう意図でやってない。彼が何のために作ってるかと言ったら、まさに映画のために作ってる。「映画のテーマは映画しかないんだ」っていうさ。映画の中で映画論を語ってる映画もあったけど、それだけじゃない。彼がやってること自体が「映画」なんだよ

 うーん、よくわかんないなぁ。でも重要なのはきっと「自然体」であることなんですよね、たぶん。「どうやってアピールしようか?」とか考えてしまった時に、映画から離れてしまうということを言っているんでしょう。なぜなら、その瞬間にその映画は、映画のために作られたわけじゃなくなってしまうから。観客にアピールしようと思った時に、映画は観客の従属物になってしまう、そういうことじゃあないのかなー。だから映画を映画として存在させるためには、「映画のために映画を撮らないといけない」っと。しっかし肝心要の「映画」がなんなのかっていえば、うーん、よくわからないなー。「映画」って、何なんだ? 漠然としすぎ。「オレが映画だ」っていうのは、まあ普通に考えれば、映画を体現しているって意味でしょう。その映画が何なのか、というのは当然ながら人によって違う。伊藤計劃にとっての映画を体現しているのが押井守であり、押井守にとっての映画を体現しているのが押井守なのだろう。そして二人にとっての映画がなんなんのかは、だいたいここを引用すればわかるんじゃあないかと。

 何があり、どういうことが起こるのかわかりきった「ファンタジー」世界が異世界なのではない(そして実はファンタジーですらない)。女子高生が突然ワープした先で在ろうと、エルフがいようと剣と魔法があろうと、それは既に私達の「慣れっこになった」世界でしかない。では異世界とは何か。それは、日常見ないものを、ちょっとずれた視点から見たときに出現する「めまい」なのです。──P272『伊藤計劃記録』

 この「めまい」というのが、最初に引用したところの「夢と現実のあわいに広がる微睡み」なのでしょう。映画というものは異世界であると言えるでしょう。そして、私達はそれを見るときにちょうど夢と現実の境目に存在している。そして異世界とは何かと言えば、ここではないどこか、ではないのです。異世界とは私達が見ていなかったものが見えるようになるところにある。その意味でいえば、普通の「日常」でさえも異世界足り得る。その為には世界を組み立てるための膨大なディティールを持ってこなければならないし、単純に気持ちが良いだけの画面を作ればいいというわけではない。それが出来るのが押井守なのだ、とかそんな感じだと思った。無駄に長くなってしまった。

伊藤計劃記録

伊藤計劃記録