基本読書

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過去と未来を横断する傑作パンデミックSF──ドゥームズデイ・ブック

コニーウィリス作。タイムトラベル物。タイトルのドゥームズデイ・ブックとは、ウィリアム一世が一〇八六年につくらせた土地台帳のことだとか。しかしdoomsday本来の意味である「最後の審判の日」「運命の日」という意味もかけてあるようだ。

内容は、未来と過去を同時に恐怖の渦にたたき落とす傑作パンデミック小説。絶望的な状況下にも関わらずに、希望を持って行動するキャラクター達に胸が熱くなる。この『ドゥームズデイ・ブック』はどっかりとした悲劇だ。何しろタイムトラベル物で、舞台になっているのは、はヨーロッパの半分を殺しつくし、致死率90パーセントと言われる「ペスト」が蔓延した14世紀。それで悲劇にならないほうがどうかしている。

ちなみに著者のコニー・ウィリスは、シェイクスピアを理想の作家に挙げていて、その理由は「シェイクスピアは悲劇と喜劇、どちらもこなしたから」。コニー・ウィリスは、悲劇と喜劇、その両方の側面から歴史を観ることでより立体的に、相対的に語ろうとしているようだ。常に相対的たらんとするその姿勢は、この一冊からでも充分に感じ取ることが出来る。ここで語られるのは、思想でも宗教でもなく、ただの「状況」なのだ。キャラクターは絶望的な状況を与えられて、そこで必死に最善手を探そうとする。その残酷さに、読み終わった時に思わず気分が落ち込んだ。

あらすじ

タイムトラベル物というと、複雑なパラドックスが起きたり、未来が変わったり過去が変わったりとてんやわんや、複雑な状況になっていく作品が多いけれど、本書のプロットは凄くシンプルだ。物語の始まりは二〇五四年のオックスフォード。

この時代、過去限定だがタイムトラベルが実行できるようになり、歴史研究のために利用されている。史学部のキヴリンは、今回歴史研究を行う事になった。送りこまれた先はペストや黒死病が蔓延する十四世紀、万全の準備をしたと言い張るキヴリンに対して先生であるダンワーシイは断固として反対する。しかし、キヴリンは大丈夫だからといって行ってしまう。送りこむと同時に、タイムトラベル装置を担当していた技師が謎のウィルスによって倒れ、それは瞬く間に大学に蔓延する。

一方キヴリンは送りこまれた先ですぐに同じようなウィルスにおかされて倒れてしまう。意識が朦朧とする中、通りすがりの人間に助けられたが元の歴史に戻る為の方法がわからない。過去パートの主人公はこのキヴリンであり、未来パートの主人公はダンワーシイ教授だ。キヴリンは未来へ戻る為に、ダンワーシイ先生はキヴリンを助ける為にそれぞれ必死な行動を起こす。

レビュー

コニーウィリスの長編では「伝わらないメッセージ」というテーマが繰り返し書かれる。たとえば本作では、倒れた技師は病で気が確かじゃない状況で「何かがおかしい……」と呟き続け、ダンワーシイ先生はその言葉を必死に解読しようとする。『犬は勘定に入れません』では、ダンワーシイ先生が伝えたメッセージは相手が酩酊状態だった為に伝わらず、大変などたばたを引き起こすことになる。『航路』では、臨死体験を経験した人間が、何を「見た」のか、そのメッセージを必死に解読しようとする。

コニー・ウィリスの長編がその長さにも関わらず抜群のリータビリティを誇り、読むのを途中でやめられなくなってしまう技巧のうまさは「伝わらないメッセージ」に鍵がある。情報の出し惜しみ、小出しによって読む速度を調節され、まるで魚釣りか何かのように、糸をひっぱっていって、最後は隠されてきた真実が明かされ、一本釣りあげられてしまう。本書でもその特性は生きていて、それがあんまりにも巧妙に、実行されるのでまいってしまう。本書も第二部まで読んで、そのどんでん返しっぷりにやられた。『航路』を読んだ時に、「そういう作家」なんだっていうことはわかっていたのに、それでもしてやられた!! と思った。

という風にストーリーテーリングの技術だけで言っても、僕が知っている作家の中では最強の部類なのだがテーマの方も凄い。SFでパンデミック物といえば、たとえば未来や現在に、突然奇病が蔓延した! というような始まりをするのが普通だが、タイムトラベルで過去にいって、過去のパンデミックを経験することになってしまうという発想がまず凄い。そしてコニーウィリスによって書かれる十四世紀の風景、状況というのが圧巻なのだ。道を歩けば強盗に出会い、転んでヒザをすりむけばそのまま化膿して死んでしまう世界。そんな世界では、「死」の価値が今よりもずっと低い。

ようするに、「当たり前のこと」なのだ。人が死んでも悲しくない、ということではない。家族が死んだら悲しいが、しかしそれは「そういうものだ」として自然に受け止められる。読んでいてひどく怖かった。そんな世界を読んでいるとどうしても考えてしまう、明日死ぬかもしれない世界で、どうして今日頑張って生きようと考えられるのか、と。今日植えたリンゴの種が、木になることを見れないかもしれないのだ。

今日した勉強が、明日生かされることはないかもしれない。人を助けても、感謝される前に消えてしまうかもしれない。そんな状況で、努力をしたり人にやさしくしようなんて思うだろうか。普通は思わないだろう。しかし、本作にはそんな状況下でも、ほとんど希望が無いにもかかわらず最善を尽くそうとする人たちが居た。そこが本書を読んでいて一番不思議な点だったのと同時に、自分が死線をくぐった十四世紀を回想したキヴリンの『「ほとんどはひどいものばかり」「でも中にはすばらしいものもあるわ」』の、「すばらしいもの」だったのではないかと思うのだ。