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大学教授のように小説を読む方法/トーマス・C・フォスター

 今までの漠然とした読み方を変えたい、ただ漫然とお話を楽しむだけではなく、分析をするという楽しみを覚えたい、そういった人にオススメの一冊がこの『大学教授のように小説を読む方法』である。本書は主に主に象徴を読み解く為の手掛かりを与えてくれる。たとえば疑わしきはシェイクスピアだと思え、さもなければ聖書だ、とか。食事、セックスと個性の出しにくい描写をわざわざ書く理由は小説家には存在しないのでそれは何らかの象徴であるとかね。

 記憶。シンボル。パターン。これが何にもましてプロの読者と一般大衆を分ける三つのアイテムだ、と著者のトーマス・C・フォスター氏は言います。記憶は既存の作品との類似性、予測される結末を探してしまい、シンボルはあらゆるものを象徴として読みとろうとします。常に自分に対して隠喩だろうか? それはアナロジーなのか? と問い続けるのが、プロの読者であるといいます。そして最後にパターン。ストーリーをプロットに分解し、慣例や元型を見つけ出す。以上三つが高いレベルで実行できるようになれば、大学の文学部の教授と同じ読み方ができるようになるといいます。本書はそういったいわゆるプロの読者たる大学の文学部教授(著者がそれだ)の読み方の方法である、コードやパターンを教えてくれます。試しにちょっとまとめてみますね。

1.旅はみな探求の冒険である(そうでないときを除いて)

 探求の冒険に必要なのは、この五つだ。探究者、目的地、目的地に行く建前上の理由、途中でぶつかる苦難や試練、目的地に行く真の理由、以上を満たしていればそれは探求の冒険ということになる。たとえ探究者が勇者やヒーローであく、そこらへんのニートであっても、そしてその目的がコンビニにパンを買いにいくことだろうがラスベガスに行って男をぶち殺すという目的だろうが、構造的には同じである。

 そして基本的に、探求の冒険において本当の目的は、当初立てられた目的の中にはない。パンを買ったり、要人を暗殺したりするところの中にはない。その過程において、何か人生における核心を得たり、気づきを得たり、自分自身について何か新しいことを知る。「探究の冒険の本当の目的は、つねに自分探しである」だから旅人はほとんどが若く、未熟、未経験で、庇護されていることが多いのである。

2.あなたと食事ができて嬉しいです──聖餐式の行為

 「人々が集まって飲み食いするとき、それは聖餐式である」聖餐式とはイエスが最期の晩餐でパンを取り、「これがわたしのからだである」といい、杯を取って「これが私の血である」と言って弟子たちに与えたという聖書の記述に由来するキリスト教の儀式のこと)

 食事とは基本的に、ごく個人的な作業である。たとえばどこで聞いたか忘れてしまったけれども、どこかの部族では、セックスは人前で部族のみなが居る前で堂々と行うけれど、食事は恥ずかしがって一人でとるのだという。一般的に他人とものを食べるのは、私はあなたの味方です、と宣言するのに等しい。そしてそれこそが聖餐式なのである。

 また作家にとって食事の場面というものは、元来面白くない場面なのだ。なぜなら、食べ方にしても、食べ物にしても、もはやパターン化してしまっていてズレを起こせないからである。肉を切り、フォークを突き立て、口に運ぶ。それしか書くことが無い。なので、わざわざ食事の場面が出てきた場合、それは何か別の事を意味している可能性が高い。

3.ただの雨や雪じゃない

 「ただの雨などない」もちろんどんな物語にも設定は必要だ。晴れていたり、雨が降っていたり、嵐であったり、暑かったり寒かったり。しかし天気というのは実に様々な象徴性を持っているのだ。たとえば嵐の夜というのは、不穏な雰囲気、何かよからぬことが起こる予兆のように感じられる。また聖書におけるノアの話にも見えるように、降りすぎる雨というのは最大の恐怖の一つだ。たとえば霧、これは混乱や困惑の合図として読める。作家が霧を使うのは何かがはっきり見えない場合と問題になっていることがらが胡散くさい場合のどちらかが多い。そして雪、清らかで、美しく、残酷なイメージ、雪のイメージは多種多様で、使い勝手が大変よろしい。

 まあ要するに、作家がわざわざ天気を書いたという事はそこには何らかの意図が込められていることが多い、ということだ。作品の雰囲気をつかみ取るには、まずは天気に注目するのだ。

4.すべてセックス

 英米文学には多くの象徴的な性交が書かれていて、その理由は珍しくたった一人に集約される。言うまでもなくフロイトであり、彼が原因……というか、彼が「すべてはセックスである」ということを教えてくれたのだ。高層建築? それは男性性器だ。広々した景色? それは女性性器だ。階段? 性交だ。てな具合に、すべての物事はセックスがらみの象徴にされてしまう。また昔の小説文学においては性行為を書くことが禁じられていた時代も長かった為に、小説家たちはその体制に反発する為に多くの象徴的セックスを生みだした。みだらにご飯を食べてみたりして。そうすることでコードを解読出来る人たちはそれを読みにやにやとして、気づけない人達を笑った。今では随分とセックス描写にも寛容になったものだけれども、今度はセックス描写そのものが隠喩として使われるようになる。なぜなら、わざわざセックスを面白く書くことが、食事の時と同じで難しいからだ。様々なシュチュエーションはポルノ小説でもうやられてしまっているし、手順は実際問題少ない。「作家がセックスについて書くときは、本当は何かべつのことを言おうとしている」それが何なのかは、知らないけれども。


 まあこんな感じで全ては進行していく。上に挙げた四つ以外にも全部で26のケースについて書かれていて、非常にわかりやすい。AはBであるという単純な=、たとえば葉巻は男根の象徴である、ということを言っている訳ではなく、事例とあるあるパターン「こう来たらここには何か意味がある確率が高い」ことを教えてくれる良い本でした。

大学教授のように小説を読む方法

大学教授のように小説を読む方法