よい書評には、何が必要なのだろうか。H・L・メンケンが指摘するように、「書評はまず何よりも、おもしろくなければならない。つまり、巧妙に書かれなければならないし、関心を惹く個性を示さなければならないということだ。そこに見られる批評の公正さは、二の次でいい。あたえられた本が『いい』のか『悪い』のか判断できない場合も、しょっちゅう、いや時々はあるだろう。反対の意見が、不完全な知識を惑わすこともある。好みという感情に、常につきまとわれてもいる。が、批評家は、読み手に品のいい楽しみを与えることによってのみ、自分を正当化できるのかもしれない。知識が豊富で文章もうまければ、何を書いても、何について書いても、読み手を楽しませることが出来るだろう」
これは『本から引き出された本/マイケル・ディルダ』の中の「批評家と書評家」という項目で引用された部分なのですが、これには深く同意するのです。「これが面白い」と思い、それをどんなに論理的に説明しようが人によっては「それつまんないよ」っていう人もいる……っていうか、面白さというのはあやふやなものであるところまでは可能だとしても、今のところ完全に論理的に割り切れるものではないのですよね。もしそんなことが出来たら、物語工学論ではないですけれども、物語は工場で自動生成されるようになるでしょう。ですので誰にでも理解できる形での批評の公正さというのは不可能だと思います。となるならば、書評の存在価値は? となった時に、書評自体が面白くなければ、批評的にその本が面白かろうが、つまらなかろうが、意味が無いだろうなーと。
しかしどんな書評が面白いんでしょうね? 世の中には色々なタイプの書評を書く人がいますが、たとえば豊崎由美さんのスタイルというやつは基本的に「死ね!」か「生きろ!」の二つのパターンしかない(と私は思う)のですがそれは議論好きの性格からも来ているのでしょう。自分の論理に自信を持ち、作品を自分の尺度に当てはめてざっくざっくと評価していく、いわば裁判官のようなスタイル。
それとは異なるスタイルの書評家としては、内田樹さんが挙げられるかと思います。(書評家ではないでしょうが、私は書評をあまり知らないので内田樹さんぐらいしか挙げられない)内田樹さんは依頼されれば必ず絶賛する「絶賛書評家」なので、「いい」か「悪い」かの判断など出来ないのだからとりあえず絶賛しておけば波は立たないだろうという、「本の面白さは論理的に証明できない」と考えているタイプと言えるでしょう。作品が退屈だと思っても、それはどちらかといえば作品のせいもあるだろうが、それ以上に自分の側に問題があると考えるタイプ。
ネット上の書評サイトで挙げるならば『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』のDainさんは後者、内田樹さんタイプで、『琥珀色の戯言』のfujiponさんは前者の豊崎由美さんタイプでしょうか。『誰が得するんだよこの書評』のdaen0_0さんも、どちらかといえば前者、いわずと知れた『404 Blog Not Found』のdankogaiさんは後者よりの前者といったところですかね。褒めつつ、ダメなところは指摘する。
もちろんどちらのスタイルがより優れている/面白い ということを検証したいわけではなく。どちらにも優れている点と、弱点があるということで。豊崎さんタイプは書評を行っている人と、感性がある程度似ていないと書評も面白く読めないでしょうし、内田さんタイプの書評は読んだときに、「そんなに寛大になれないよ」と思うかもしれません。重要なのは、二つのスタイルをバランス良く配合すること、でしょうね。まあ言うまでもなく凄く難しそうですが。
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