基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

現代においてがっつりと読むことの重要さと幸せ

 カントの『永遠平和のために/啓蒙とは何か』を読んでいます。カントは難しいというのが私の先入観でしたが、そんな先入観は粉々になるようなわかりやすい文章でびっくりしました。光文社文庫版の訳の頑張りでありましょう。「啓蒙とは何か」で繰り返しカントがいうのは、「自分で考えろ、大人になれ」というだけのことなのですけれども、それがいかに難しくて重要かという事を説明しています。まあそんな事はどうでも良いのです。

現代においてがっつりと読むことの重要さと幸せ

 本書を読んでいる時に、久しぶりに本をがっつりと消費しているな、という気分になりました。線を引いて、言葉の細かい意味に引っかかったり、意味を考えたりして立ち止まりながら読む。思えばそういう読み方を、最近はあまりしていないなと思いました。その要因として、このブログを書いていることが挙げられるでしょう。割と頻繁にブログを更新する為に、一つの本に立ち止まっている訳にはいかないとほとんど無意識的に思っている節があります。このことについて、『自由をつくる 自在に生きる』の中で森博嗣はこう書いています。

 本来、自分の時間は自分のためにある。何をするかは自由なはずだ。
 しかし、ブログを書くことが日常になると、ついブログに書けることを生活の中に探してしまう。人が驚くようなものを探している。写真に撮って人に見せられるものを見つけようとしている。たとえば、1年かけてじっくりと考えるようなもの、10年かけなければ作れないようなもの、そういった大問題や大作ではなく、今日1日で成果が現れるような手近な行為を選択するようになるのだ。
 知らず知らず、ブログに書きやすい毎日を過ごすことになる。

特に誰に求められている訳でもないこんなブログでも、「更新する」事に、わたし自身縛られているでしょう。「たまには一年ぐらい更新するの辞めて、腰を据えて難解な本を読み解いてみたら?」と自分で自分に対して思ったりもします。しかしですね、カントなんて時間をかけて読み解いたからと言って何がどうなるわけでもないのです。カントを読もうが、ニーチェを読もうが、現実に対してはあまりにも無力です。走るのが早くなるわけでも、仕事ができるようになるわけでもありません。「オレ、カント読むんだぜ!」と人に自慢ならできるかもしれませんが、あまりにも悲しい。

そんな風に、カントやドストエフスキー、あるいは魔の山のような長〜〜い小説、哲学書を読んでいる時に発せられる「そんなの読んで、どうするの?」という問いが、本をがっつりと読むことを妨害する要因の二つ目であります。世の中にはもっと切羽詰まった話が転がっていて、たとえば社会人だったら「ニーチェを読み解く暇があったらビジネス書や資格の本でも読め!!」と言われるでしょう。そもそも現代に生きる私達にとって、時間というのは各所で奪い合われるものであって、身の回りはこちらの時間をこの世から消滅させようとする娯楽に満ち溢れています。インターネット、ゲーム、漫画、色々です。最近の傾向として、娯楽はほとんどが短期間で楽しめるものに支配されていっているように見えます。

そんな状況にいると、思考の質というものも大きく変化していかざるを得ないでしょう。具体的に言えば、受け手側の集中力、根気といったものが根本的な部分で損なわれていっているように思えます。ちょっとでも退屈、つまらないと思ってしまえばすぐに別の短期的に楽しい、すぐに効果が現れる娯楽へと向かってしまう。だからこそ、時間を壮大に、無駄に使って、現実の状況にはまるで役に立たない難解な哲学書や、ドストエフスキートルストイのような長い小説をがっつりと読みこんでみることは、現代においては非常に重要で非常に幸せなことなんじゃないかと思うんですよね。なぜなら流れに逆らう、というのは自由な思考をする為に、重要なことだと思うからなのです。

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

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