基本読書

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語尾における丁寧の敬語の意味

唐突に(もう遅いんだけど)宣伝をさしはさみますと、本日5月23日に行われる文学フリマ - 会場アクセスに参加します。場所はB-11の黒い姉弟です。友人が能力者バトルの小説を書いて、僕が能力についてなんか適当に書いてます。良かったら見て言ってください。宣伝終わり。

橋本治の『失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生』を読んでいますがこれが傑作の予感なのです。橋本治版日本文学史のような内容で、日本語の成立過程からどのように日本語文体が変化していったのかに注目した一冊です。まだ全部読んでいないのでアレですが、面白いところがちょこちょこあるのでちょこちょこ書きながら読み進めていきたいと思います。まずは『語尾における丁寧の敬語の意味』について。

口語体と文語体の違いについて

とりあえず話の前提として、口語体と文語体の違いについてのお話。

「口語」というのは「書き言葉」に対する「話し言葉」です。「話したまんまを文にしたのが口語文か?」といえばそういうこともなく、口語文とは「話したまんまを元にして作った話言葉に近い文体」とかいう地味に複雑なものなのですね。

それに対しての「文語」の概念は当然「書き言葉」です。しかし「文語体」とは「文章に使われる書き言葉による文体」ではないのです。なぜならそういうことになってしまったら、口語体が広く流布した時点で口語体=文語体になってしまって、概念を別にする意味がなくなってしまう。文語体が文語体として存在する為には、文語体に「書き言葉」以外の概念を与えなくてはなりません。その概念が、「文語体=古典の文体」であるという理解です。

現実にある口語と文語の対立は「書き言葉」と「話し言葉」の対立ではなく「古い言葉と新しい言葉の対立」なのです。

語尾における丁寧の敬語の意味

そして「話し言葉」で文章を記述しようとして、その運動が明治の頃に起こりました。それこそを『言文一致体』というのですが、その為には新しく言葉を創りださなければいけないわけで苦労するわけですね。話しているまま書ければいいのですが、前提として「話した言葉を、文章らしくする」作業が必要だからです。しかしなぜ文章らしくする必要があるかと言えば『文章にすればその筆者の姿は隠れるが、話し言葉のままでは、話しての姿が丸見えになる』からだと橋本治は言います。

書き言葉というのは手紙でもない限りはルールにのっとって書けばいいので具体的な相手を想定しません。一方話言葉は常に「話しかける相手」が必要です。たとえば目上の人であれば「──ですよね」と言うでしょうし、友人ならば「──だよね」と親しみをこめて言うでしょう。これらは同じ人間相手には使われません。だから、言文一致体(口語文のこと)を創りだすためには「語尾の敬語の有無」が問題になるのです。

違う言葉でその問題を言いかえると、『書き手はどこにいて、誰に向かっているのか』になります。話し言葉で書く以上、それは「書く人から、誰かへ」の回答が必要になり、それが実は微妙に複雑な問題をはらんでいるのです。

たとえば口語表現を使って「丁寧の敬語」を省くと伝わることはストレートに伝わりますが伝わる相手が限定されてしまいます。なぜかといえば、それは「敬語を使わなくてもいい相手」にしか伝えられない文章になってしまうからです。

かといってそこで「丁寧の敬語」を使えば、それは誰にでも伝わる文章になるわけですが一方でまだるっこしい、面倒くさい文章になります。同時にこの「相手の存在を前提とする」敬語の文章が存在することによって、敬語を使わない文は「誰かは読んでくれているはず」と思い込んでいるだけの痛い文章となる危険性をはらんでいるのです。

『書き手はどこにいて、誰に向かっているのか』が問題になるのはそういう危険性をはらんでいることを認識しなければ、自己完結的な文章になってしまうからです。そういう危険性をはらんでいることを認識したうえで、ちゃんとした効果と状況を認識して選択しなければならないというわけですな。

これは明治初期の、最初の口語体が発生した時の問題ですが今でも充分悩ましいです。私もしょっちゅう「──というわけです」と言ってみたり「──というわけだ」としてみたり、まったく何の考えもなく混合させてしまっています。「一人称小説の語り手は、誰に語っているのか?」なんて問題にもつながってきたりして、『書き手はどこにいて、誰に向かっているのか』は根が深い問題ですね。

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

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