基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

コピーが増えていくことで、その技術は普遍化する

押井 僕の言うアニメの<<発明>>は、宮さんがやってるような反動化とは逆なんだよね。だから僕の<<発明>>は全部模倣することが可能なんだよ。僕が今までにやってきたことは、すべて誰でも模倣してくれてOK。
──師匠はむしろ積極的にフィードバックしようとしてますもんね。
押井 そうだよ。模倣化しやすいように本まで書いてやって。
──「どうぞ真似してください」と。
押井 あの本を見て、誰かが「ああ、これでわけもわかんない奴らがみんな『パトレイバー』みたいなレイアウトをそっくりコピーし始めるんだ」って吐き捨てるように言ってたそうだけど、僕に言わせればむしろどんどん盛大にコピーして欲しい。コピーが増えていくことで、その技術は普遍化する。レイアウトマンが一人でも多く出てくれればそれでOKなんだよ。そもそも、なんだって真似してみるところからしか始まらないんだから。僕だって真似から始めたんだもん。僕のレイアウトシステムっていうのは宮さんの真似から初めて、自分独自のものに作り変えただけだよ。(P69-70──勝つ為に戦え!監督編)

中略

──アニメの演出家はみんなヒッチコックを見てるんですか?
押井 今の演出家は見てないと思う。だからダメなんだよ(笑)。要するに、これまでのアニメーションのカット割りを真似てるだけだもん。
──模倣の模倣ということですね。
押井 ちゃんと古典からコピーしろよ、って話なの。古典からコピーすれば、色々進化して発展する余地もある。派生物から派生物をコピーしたって劣化コピーになるだけ。コピーする以上、単なる劣化コピーじゃダメなんだよ。(P270)

本当は俺と彼女が魔王でなんとかでとかいうわけのわかんないタイトルのライトノベルが、バカテスの文章をパクっている〜とかいう一連の騒動を批判しようと思っていたのですけど、「なぜそれがダメなのか?」というのを納得のいく形で説明できそうになかったんでやめておきます。「パクリ」と「模倣」「パロディ」と「オマージュ」の境界線がよくわかんないんですよね。「パロディ」の自分なりの定義は、「元ネタがわかるようにすることが前提」で、「オマージュ」はパクリに近いが元ネタ、程度のもので「パクリ」と「模倣」の違いは演出をパクるのが模倣で、それ以外の部分をパクると普通にパクリというような認識を一応持っています。たとえば私がやっているこの「最初に長々と引用して、その後に自分の考えを書く」スタイルみたいなのは完全に「活字中毒R。」さんの模倣ですもんね。これが「活字中毒Rさんが書いた文章をそのまま自分が書いたように見せかけたら」パクリだ、というのがたとえ話として私が思っていることです。

でもそれって最終的にあんまり意味がなくて、「大多数の人がパクリだと感じたらパクリだ」みたいなのが今の風潮のような気がするんですよね。その辺があいまいでよくわからない。まあでも上の区わけで行くとセリフを写すのは普通にパクリですけどね。参考→【盗作】 電撃文庫 「俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長」 がファミ通文庫 「バカとテストと召喚獣」を間違いなくパクってる!?:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

なんだって真似して見るところからしか始まらないんだから

その変わりに技術の模倣全般について押井守から引用する。「なんだって真似してみるところからしか始まらないんだから」という押井守の言葉には、頷くことしかりです。全ての物語にオリジナルという要素はなく、大抵同じような、似たような話が過去にあるものです。それは例えば現代において大量に引用されるシェイクスピアの時代だって、同じだったそうです。シェイクスピアの『ハムレット』にも元ネタがあったそうですから、その大元はどこなんだよと言われても誰にも答えられないんじゃないかなあ? 適当言ってますが。だったら模倣することは、もちろん全部が全部そうじゃないとしても基本的には悪い事じゃない。

技術が普遍化するとはどういうことか

技術が普遍化する、ということについて。内田樹というどこかの大学の教授の方は、ご自身のブログに書いてある事は「どれだけコピーしてもいいし、それをコピーして自分が言ったかのように見せかけてもよろしい」と言っています。

「なんで?」と思うかもしれませんが、その理由はそもそもの「書いた動機」に端を発します。つまり内田樹先生が「文章を書くことによってお金を儲けたい! みんなから尊敬されたい!」というだけの動機で文章を書いていたら、文章をコピーされ、転用されることは自分の本来得られたかもしれない尊敬やお金を盗られるわけですから「否!」と言わなければならないのですが、内田先生は「自分の思想が一人でも多くの人に行きわたって欲しい」と思って書いているので、「誰が書いたことになろうが、考え方さえ届けば何の問題もない」ちうことになるんですよね。

たぶん、押井守が言っているのもそういうことなんだろうなぁと。押井守がアニメにおける<<発明>>を行うのは、それは自分の為、ということももちろんあるでしょうが「よりアニメーション全体を活性化させる為」ということもあるのでしょう。アニメ界が停滞し、人気がなくなり、アニメが作れなくなってしまったら困るのは押井守自身ですからね。そのあたりは結構打算的に行っているのだろうな〜と思って読んでいました。あと模倣の模倣云々の話は色々別の分野にも転用できるいい話だなぁ〜と思いました。あたりまえっちゃああたりまえの話なんですけどね。

勝つために戦え!〈監督篇〉

勝つために戦え!〈監督篇〉