基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない (人生のエッセイ)

昭和中期? ぐらいに大変活躍された日本の映画監督、小津安二郎氏のエッセイをまとめたもの。恐らくこの本を読む人、対象者というのは氏の映画をリアルタイムで経験した、ファンの人たちなのでしょうが私は氏の映画を一度も見たことがない。じゃあなぜ私が、氏のエッセイなぞを読もうと思ったかと言えば、敬愛する師匠である内田樹先生が、小津安二郎氏を師匠と崇め、批評も多くしているからなのですよね。

というわけで映画を見るまではいかなくても、気になってはいたのですよ。そこで本がこうして出たわけですから、読まないわけにはいかない。しかもこの『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』というタイトルはね、結構すばらしいと思う。まあ基本それだけの動機で読み始めたのですが、これが大変良かった。

基本はやはり映画監督ですから、映画語りです。また戦時なので、戦争に行った時の体験談、創作のコツ、などなどが描かれている訳です。日本映画の巨匠とはいっても、お亡くなりになられたのは一九六三年ですからおよそ50年前。それだけの月日が流れれば言葉は古びて、一般化できないだろうとも思いますが、しかしその言葉は常に物事の原理・原則を掴んでいる為に今になっても色あせていません。

特に戦争について語っているところは圧巻で、弾丸が頭の横をかすめていくような状況にあっても「映画」のことを考えている映画バカぶりに、「ああ、これが天才ってやつかぁ」と納得してしまいます。たとえばこことか。

 音楽についてはぼくはやかましいことはいわない。画調をこわさない、画面からはみださない奇麗な音ならいい。ただ場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選挙区はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる。悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感の増すことも考えられる。こんなことがあった支那事変のときの修水河の渡河戦の時であった。ぼくは第一線にいた。壕の近くにアンズの木があり白い花が美しく咲いていた。その中に敵の攻撃がはじまって、迫撃砲がヒュンヒュンと来る。タンタンタンと機関銃や小銃の間を縫って大砲が響く。その音や風で、白い花が大変美しくハラハラと散って来る。ぼくは花を見ながら、こんな戦争の描き方もあるのだなと思ったことがある。

戦争という最悪な状況の中でも、美しいものというのは見いだせるのだという氏の創作の中核みたいなものが、ここには同時に表れているのじゃあないかと思います。たとえばこういうことも言っていました。

 泥中の蓮……この泥も現実だ。そして蓮もやはり現実なんです、そして泥は汚いけれど蓮は美しい、だけどこの蓮もやはり根は泥中にある……私はこの場合、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法もあると思います、しかし逆にいって蓮を描いて泥土と根をしらせる方法もあると思うんです。
 戦後の世相はそりゃ不浄だ、ゴタゴタしている、汚い、こんなものは私は嫌いです、だけどそれも現実だ、それと共につつましく、美しく、そして潔らかに咲いている生命もあるんです。これだって現実だ、この両方ともを眺めて行かねば作家とはいえないでしょう、だがその描き方に二通りあると思う、さき程いった泥中の蓮の例えで……

これと同じようなことを言っていたのは押井守氏です。氏は非実在少年読本のインタビューの中で、表現規制に対して、「文化というものは、良い面も悪い面も持って初めて文化というんだ。畑があれば肥溜めが必要なように、汚いからと言って排除できるものじゃあない。なぜなら文化を生み出す人間そのものが、良い面と悪い面を持っているからだ。だから表現規制なんてもってのほかだよ」というようなことを(うろ覚えで書いた)いっていましたし。小津安二郎が現代に生きていたら、押井守と同じことを言っただろうなぁと思います。

現代にも通じるというのは、小津安二郎という映画監督が今のところは普遍的存在である「人間」を撮っているから、とも言えるでしょう。小津安二郎監督はカメラを通して「深く物を考え人間本来の豊かな愛情を取り戻したい」と言っています。風俗やら流行といったものは時代によって移り変わるが、人間の本質とでもいうようなものをいかにしてカメラに写し取るか、そればっかりをやってきた人間の言葉ですから、説得力があります。この本を読んだらとたんに映画を見たくなったなぁ。