基本読書

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永遠平和のために/啓蒙とは何か 他三編/カント を途中まで読む

なんとなくカントを読んだので途中まで要約してみる。①パートは基本的にキイセンテンスの引用であり、②パートは僕自身の感想、説明、要約のようなもの。例によってこれ以降までやるかどうかは不明。最後のほうになっていくにつれて疲れて適当になっていくのはご愛敬。ではでは。

Ⅰ「啓蒙とは何か」

①-1

「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気を持て」ということだ。」(p.10)

②-1
「啓蒙とは何か」における核心とはすべてこの部分にある。いうまでもないことだけれども、最初に立てた問いにいきなり答えてしまっているわけで。ここで終わってしまってもいいだろう。簡単に補足すれば、啓蒙とは未成年状態から脱出することであり、脱出する方法は理性を使うことであり、しかし理性を使うことは至極難しい、なぜなら未成年状態というのは浮遊状態、水にぷかぷかと浮いているような状況なもので、とても楽だからである。楽ならばそれでいいじゃないかというかもしれないが、それをカントはのちの論文で否定する。シンプルに説明すれば、それは啓蒙を怠ることは人間性の否定につながるからだ、というようなことだと思う。そもそも理性とはなんだろうか。カントのいうところでは「みずからのすべての力を使用する規則と意図を、自然の本能の領域をはるかに超えたところまで拡張する能力」ということになる。

啓蒙とは何かで説いているのは、理性の使用、つまり考えることの重要性とその困難さだ。本を読んで人が言ったことを全てまる写ししているだけのような(これとか)は理性の使用ではない。人が言ったことをそのまま信じ込んでしまうようでは、まだまだ未成年な状態と言わざるを得ないだろう。だからこそ困難なのだ。

次に、「どうすれば人々が理性を使うことができるようになるのか?」をキイセンテンスとして抜き出す。

①‐2

「ところでが公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的にしようする自由さえあればよいのだ。」(p.14)

②‐2
公衆を啓蒙するためには、あらゆるところで自分の理性を公的にしようとする自由があればよいという。さて、ここで疑問なのは「公的」とは何かである。理性の公的な使用とはどのようなものだろうか? カントはこう書いている。「それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。」(p.15)

一見奇妙に見えるのは私たちの理解からすれば官職についているもの、要するに仕事としてついているとき、それこそが「公共」なのではないだろうかということだ。しかしカントの定義からすれば仕事についているときに、その仕事について、仕事のルールにしたがって仕事、従事している場所へより貢献するような形で語らなければならない。たとえば教会の仕事を担う牧師の仕事を遂行する際には、自分勝手なことをいってはならない。自由ではない。公的とは、それとは真逆である。たとえば食肉偽装問題の告発のようなもんだろう。間違っている事は間違っているとはっきりと言う事。私的な仕事よりも、社会的な義務を優先して理性を使う事が、理性の公的な使用というものなのじゃあないか。その場を増やせ、とカントは言っているのだと思う。

Ⅱ「世界市民という視点からみた普遍史の理念」

本章でカントが扱うのは、人間は進歩をする存在であると定義したうえで、ではどこに向かって、どのように進歩しているのか? という問題である。人類の進歩にシナリオはあるのか? といってもいい。

①‐1
「この舞台を眺めている哲学者にとっては、人間とその営みの背後に、理性的で、人間に固有の意図をみいだすことはできない。それだけに人間の行動という矛盾した営みを動かしている自然の意図のようなものがないかどうかを、調べるしかなくなるのである。人間という被造物が、固有の計画を推進していないとしても、ある自然の意図にしたがった歴史というものを考えることはできないだろうか。この論文では、このような歴史を書くための<導きの糸>を発見できるかどうかを調べてみたい」(p.34)

②‐1
一番最初の「この舞台」とは人間の営みを世界的な流れとして見た時のことである。舞台としてこの人類の歴史をみると、ときどき賢明だがそのほとんどは幼稚さと虚栄心などといったあまり好ましくない要素に満ちている。しかしそこに意図があるとしたらどうだろうか? 一見利己的に、ふらふらと行きあたりばったりに行動しているように見える人類が、誰もが知らないうちに「自然の意図」を遂行しようとしているのでは? というのを調べるのがこの「世界市民という視点からみた普遍史の理念」である。それを調べるためにカントは、第一命題から第九命題までを唱えているので一通り簡単に要約、解釈してみたい。

第一命題は、被造物のすべての自然的な素質はいつかその目的にふさわしい形で完全に発達する、というすべての動物にみられる基本原則を言っている。正直いってそんなの初耳なので正しいのかどうかさっぱりわからないけれど、目的論的なあり方は面白い。あとそういうのがなかったら世の中偶然だらけになって慰めがないよね、といっていて、まったくだなぁとおもった。

第二命題で言っているのはどんなに理性を利用したとしてもそれが生きてくるのは僕たちが死んでからだよ、どんどん子孫に受け継いでいくというあり方が、人類という存在なんだよということだ。受け継いでいって何を目指すのかといえば「完全に発達した状態」であり、そこに至るために私たちは啓蒙を行わなければならないのであり、私たちはそういう類なのであるということを今まさにここで証明しようとしているのである、と思う。

第三命題は先ほどの議論を受け継ぐ形で、「なんでぼくらどんだけ理性働かせてもその恩恵を享受できないのに理性はたらかせなあかんの?」には、「僕たちは個人じゃなくて人類を永遠に存続させようとしているから、そうしちゃうんだよ」というようなことを言っている。そしてそのために理性を発達させて生物学的な配置に含まれないすべてのものをみずから作り出すことは、すべて自然が人に望んでいることなんだよーとも言っている。「自然」をなんか自分のいいように解釈しすぎでないかなと思うものの、とくに反論できない。

第四命題では人間がその素質を発達させるために利用した手段は、対立関係にこそあるということを言っている。社会を頑張って構築している一方、それを破壊しようとする力もある。その絶えざる対立関係こそが、人類に成長を促してきた。第五命題は法を元にした市民社会について語っている。森の比喩で考えると、すべての樹木はできるかぎり背をのばして競い合うけどもし隣の樹から邪魔されなかったら好き勝手伸びていっちゃうから、ダメだ、法があるからこそ人間はまっすぐ上へ向かって成長するのだ、と。

第六命題は支配者についてだ。人間はほかの人間とくらすときは支配者を必要とする。しかしその支配者となるべき人も、支配者を必要とするのである。支配者の支配者の支配者──永遠に入れ子構造が続くことになる。カントこの問題を解決するのは不可能であると言い切ってしまう。

第七命題は国際連合の樹立だ。先ほども述べたような市民体制を設立するためには、国家間の関係を合法的なものにしなければならない。戦争なんかおこったら持ってのほかだ。だから国際連合を作らなければならない。これが凄いのは、カントがこれを言った時にはまだ現在の形のような国連は存在しなかったことである。

第八命題では、人類の歴史の全体は、自然の計画によるプロセスだ、といっている。何に至るまでのプロセスかといえば、内的に完全な国家体制を樹立することであり、外的にも完全な国家体制を樹立することである。内的なとはたとえで言えば日本であり、外的なとはたぶん世界連合のことだろう。まあ相変わらず自然がいいように使われているような気がしないでもない。

最後に第九命題だ。自然の計画はさっきも書いたように、完全な国家体制を樹立するところにあるが、そういう見通しをたてることによって、その計画にしたがって人類の普遍詩を書こうとする哲学的な試みが可能になる。そこにこそ、このような構想の意図があるのである。

①‐2
「といってもこうした世界の歴史を構想し、前もって考えられた導きの糸を想定したとしても、もっぱら経験的な見地から描きだす歴史記述の作業を否定するつもりはない。それはわたしの糸を誤解するものである。この構想は、哲学者が経験的な見地とは異なる視点から試みるものにすぎない。」(中略)「支配者たちが後の世代に自分たちが栄誉をもって想起されるようにする唯一の手段は、こうした世界市民の観点に立つことであることが自覚されるだろう。」(pp.64-65)

②‐2
ここを引用した理由は、今まで長々と要約してきたような人類の普遍史を、何のために導きだしたか、に対する答えだからである。なんだかよくわからないけれども、そういう仮定を立てて、そっちへ意識的に進んでいくことによって「歴史が加速する」とでもいうのだろうか、そういう意図があるような気がする。そしてそれを見通して行動すれば「先輩マジかっけーす」てな具合に後世の人がほめてくれると。カントもそういう意味では、すごい栄誉をもって想起されているので作戦大成功である。

Ⅲ「人類の歴史の憶測的な起源」

①‐1

「人間の行動を記述する歴史に憶測をさしはさむことは許されないだろう。しかし人間の歴史の起源を記述するには、それが自然による起源であるかぎりにおいて、憶測を試みることはゆるされるのである。この歴史の起源は、仮構として物語る必要はなく、経験からとりだすことができるからだ。」(p.70)

②-1
ここでカントは先ほどの章で語った、「意図された人間の歴史」とは「いかなる起源をもっているのか」を、現在の私たちから逆算する形で語り始める。ここが重要なのは、「起源とはだれも見たことがないのに、語れるものなのかどうか」という最初の問いに答えているからである。結論からいえば、語ることはできる。現在の私たちを分析することによってそれは可能である。憶測によって、であるけれども。

まずカントが最初に設定するのは、人間の存在という事実の始まりである。母親が存在したらその母親はだれが生んだんだよ! という話になってしまうので、成人した人間が最初にいる。そして子供を産まなければいかんので成人した人間とは夫婦である。戦争されたら困るのでひと組である。というようにどんどん仮定的な条件を継ぎ足していく。そして、当然のことながらそのままであるならば、永遠に進歩せずにのほほんと暮らし続けていただろう。何しろ「生存できる状況」として始まったのだから、生存できないはずがない。

しかし人間には理性があった。本能を制御する能力があったために、生まれつきの生き方に縛られないことを発見した。その結果、原初の進歩はないが平和な状態から抜け出し、果実を食べることによって闘争と自由の日々を得たのである。そして自由になったら最後、もうもとの隷属状態に戻ることはできなかった。

①-2

「もの思う人間は苦悩を感じる。これはものを思わぬ人は知らない悩みであり、あるいはこの苦悩から道徳的な堕落が発生するのかもしれない。この苦悩は、世界のすべてを支配している神の摂理に満足できないために生まれるからだ。それに諸悪が襲いかかり、人類を悩ませていて、いかなり改善も期待できない(ようにみえる)からだ。しかしわれわれがこの摂理に満足することは、きわめて大切なのである。」(p.97)

②-2
私たちは常に悩んだり、失敗したりするけれども、しかしそれは「起源」から設定されたことであり、そして悩んだり失敗したりするからこそものが考えられるのであり、「自由」を得ることができるのである、という非常に重要なことをここでは述べている。たとえば戦争がある。戦争は一見悪だ。将来の戦争に備えるために異常に労働力をとられ、軍備は縮小することはなく、戦争がいざはじまれば人がたくさん死ぬ。しかしそのような最悪な戦争があるからこそ、人類は文化、科学を発展させてくることができたのだともいえる。

たとえば寿命の短さも人間の悩みの一つだ。だれもがいつかは死んでしまう。だが、いつまででも生きていられるとすれば、はたして人は努力するだろうか。切磋琢磨するだろうか。しないだろう。だからこそ、寿命の短さという悩みにも、満足して、受け入れなければならないのである。この章で一貫していっているのは、私たちの歴史というのは善の状態から悪の状態へと落ちていくのではなく、むしろ悪の状態からだんだんと改善していっている過程なのだ、ということだ。そのためには啓蒙が必要なのであり、全体を見通す設計図としての普遍史が必要なのであり、そして普遍史に耐えていくための現状を肯定する考え方が必要なのである。

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)