基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

最後の家族/村上龍

id:daen0_0さんにお借りしたこの一冊。村上龍氏の書く作品はまったくもって暗いものが多いので読む時にはそれなりの準備というか心構えというかそういうものを大量に必要とするので借りてから読み始めるまで結構たってしまった。村上春樹が癌における終末医療、最後の時間ぐらいもうつらい闘病なんかやめて幸せに死んでいこうという感覚ならば、村上龍は癌があるならばなんとしても延命する為に晒してぶっちぎってしまえとばかりにこっちを切り刻もうとする、そんな感覚の違いがある。

というわけで『最後の家族』である。ひきこもりの21歳の青年と、その彼をとりまく周りの家族を扱った小説で、これがやっぱり暗い。けど最後は明るいので読後感はそこまで悪くない。村上龍はこの小説について、こうあとがきで語っている。「この小説は、救う・救われるという人間関係を疑うところから出発している。誰かを救うことで自分も救われる、というような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった考え方は自立を阻害する場合がある。(p.344)」。

テーマは「救い」と「自立」だろう。ただその過程で書かれるひきこもりの精神病者がまた圧巻。最初の4ページで、凄い勢いで引きつけられて、そのまま最後まで一気に読んでしまった。いやほんとうにこの冒頭は凄まじいですよ。ひきこもりの青年の心理描写なのだが、引きこもっている自分、現状の不安と不満と未来への不満がこれでもかと書かれている。インターネットで自分よりも引きこもり歴の長い人間の体験談を眺めて優越感に浸る一方で、「自分の未来の姿かもしれない」と思うと不安でたまらなくなる。そんな何をするでもない日常の終わりに、なぜか主人公はカーテンに十センチの穴を開ける。しかも二時間もかけて。

十センチの穴の開いたカーテンを通して日差しが入ってくる。何でそんな事をしたのかという思考はわからない。二時間である。血迷って始めたにしても、いつ正気に戻ってもいい時間の長さだ。が、しかしそのたった十センチの穴こそが引きこもりの青年にとっては外界との唯一のつながりであり、たった十センチなのにその穴を開けた本人からしてみればとてつもない希望なのであり、読んでいるこっちからすれば「たかが」十センチのカーテンの穴にすがらなくちゃいけない絶望も同時にわかってしまって、大変つらくなるのと同時に恐ろしい村上龍の技量だな、と舌を巻く。

そして、たまたま空いたその十センチの穴が、引きこもりの主人公の更生のきっかけになる。

そう、めちゃくちゃうまい小説なのだ。この後も、家族の視点、父親、母親、引きこもり、その妹、とぐるぐるぐるぐる視点を変えて、救いとは何か、自立とは何かについてみんながそれぞれの答えを出していく。ここからはテーマについて。

自立とは言ってみれば「自分で考える」ことで、人のいいなりになったり、人の意見に流されないことだ。人の意見に流されて全てを決めれば、もし失敗しても責任逃れもできるし、非常に楽だろう。しかしそんな時代は終わってしまったんだ、という事を、リストラされそうな主人公の父親の視点を書くことで、2001年の村上龍はかなり直接的に書いている。今読むとそういう表現はむしろくどいんだけど、まあ時代の流れっていうやつですね。

そして「救い」。誰かを救いたい、といえば一見それはとても素晴らしい、良い事のように聞こえるけれど、実はそれは「相手を対等な人間」として見ていないことなのだ、というのが本書のテーマ。相手は可哀想だ、だから救わなければならない。私が居ないと相手は不幸なままだ。こういう欲求は、一歩間違えれば簡単に「自分がいなければ生きていけないくせに、生意気だ」と考えるようになってしまう。

ひょっとしたらその相手は別に不幸でもなんでもないのかもしれない。その場合は「救いたい」という欲求は単なる自己満足を超えて「暴力」になってしまう。もちろん「救い」全てが暴力なわけではない。相手が、助けてほしい、救ってほしい、と望んでいる場合は別なのだろう。ただ自分勝手な思い込みで、相手を救おう、救えると勘違いするのは暴力と同じなのだ。

自立が出来ていない人間も、人を救いたいという人間も、どちらも相手を自分の為に利用しているという点で相手に苦労を負わせている。「一人で生きていけるようになること。それだけが、誰か親しい人を結果的に救うんです。(p.304)」。いやはや、まったくその通りであろうと思う。こうした事を通じて、引きこもりの青年と、自立できていない妹、母親、父親はそれぞれ自分達の道を歩き始める。最後に示されるような家族の形は、ひょっとしたらそれこそもう更新されることのない「最後の家族」なのかもしれない。

最後の家族 (幻冬舎文庫)

最後の家族 (幻冬舎文庫)