基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

作家に必要なもの

 レイモンド・カーヴァーは「書くことについて」(『ファイアズ(炎)』収録)というエッセイの中で、
 「作家にはトリックも仕掛けも必要ではない。それどころか、作家になるにはとびっきり頭の切れる人間である必要もないのだ。たとえそれが阿呆のように見えるとしても、作家というものはときにぼうっと立ちすくんで何かに──それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれない──見とれることができるようでなくてはならないのだ。頭を空っぽにして、純粋な驚きに打たれて」
 この一文に出会った時、私は子供の頃読書から得た、二つの矛盾しながら共存する思いを蘇らせました。ぼうっと立ちすくんで、夕日や古靴を眺める。それはまさに自分が世界の一部分であることの確認です。そして、純粋な驚きに打たれる時、私はその驚きを自分だけに特別に授けられた宝物として受け取ります。そうして、そこから小説を書くのです。(p.120)『物語の役割/小川洋子

 二回も更新して失礼。ただこの、レイモンド・カーヴァーがいうところの、『ぼうっと立ちすくんで何かに見とれることができることこそが作家には必要なんだ』という文章を読んで、僕が作家の小説家の三浦しをん先生とほんのちょっとですけどお話させていただいた時のことを思い出したんですよね。以下はその時の話です。描写が苦手でたどたどしいですけどご勘弁を。

とあるイベントのことです。僕はそのイベントをあーだこーだやったりする人で、三浦しをん先生はその時のゲストでした。で、当然イベントが始まる何十分か前にすでに控室にきてもらっているわけですけれども、その場で僕が場を持たせる為に色々お話をしていたわけです。

場を持たせると言ってもぼかぁ別に芸人でも滑らない話を幾つも持っている訳でもないので、これはもうウザがられない程度の「質問攻め」しかないのであろうか……と思っていたのですが、意外なことにめちゃくちゃ気さくな、めちゃくちゃいい人で、色んな話をむしろ向こうからふってきてくれてまったく話題が尽きない。最近読んだ本の話を振れば、こっちも相当な読書家だと思っていたが相手には敵わない。こちらが読んでいる本の話題に合わせてもらっている感じ。

僕なんか今も大したことないやつですけど、その時だって今よりももっと大したことない奴で、社会的な肩書きなんか何もなく、しかも依頼主とかそういう関係ですらなかったにも関わらず、相手をナメもせずに普通に応対してくれるどころか積極的に話をふってくれる時点で感動もんだったわけですが、むしろ僕が本当に感動したのはそのそんな名もないその辺のどこにでもいるボンクラからも何かを教えてもらおうという「姿勢」だったんですよね。

たとえば、何度も何度も色んなことに疑問を持って、「これはどういうことなの?」と質問してくるわけです。「この建物の名前、なんか特別な名前だけど、由来は何?意味はあるの?」と。僕もあたふたと答えて、えっとー……とかやっていたはずですけどあまり覚えていません。普段生活していたらまったくスルーしてしまうような事を次々と聞かれて、たぶんほとんど答えられなかったんじゃないかなあ。

で、一番びっくりしたのは控室から会場まで歩いているほんの数分の間に、僕が「ここからは富士山が見えることがあるんですよ」と特に会話のネタもなく困ったので思いついたことを言った時の話。そんな事に異常に反応してしばらく立ち止まって「え? え? 見える? 今見える?」という風に、猛烈に興味を示して立ち止まり、早く行かなくちゃ〜〜! と焦るこっちが目に入っていないぐらいに興奮している。

想定としては「へ〜そうなんですね〜」ぐらいで終わるかと思っていたのに、猛烈に反応して、立ち止まって、我を忘れるぐらいに好奇心を示す。作家というのは「誰もが見落としてしまうようなところに、意味を見つけ出せる人」なんだなぁーと強く実感したのはその時ですね。そういう話を、レイモンド・カーヴァーのお話を聞いていて思い出しました。まあほとんど関係ないですね。

あと、その時から、かどうかはわからないですけど、僕は「好奇心」がどこからわいてくるのか、というのが非常に気になるようになった。僕が気づけないで通り過ぎる日常のひとコマに、意味を見いだせる人、条件は何なのか。そして出来れば僕も、ただの夕日や月やら、古靴から果てはゴミにまで感動できるようになりたいなぁ、そう出来たら結構毎日楽しいんじゃないかなあ、と思いながら日々を過ごすようになったのです。

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

天国旅行

天国旅行