舞城王太郎が放つ……何小説だろう? ともかく、「ジャンル付けを求めてないんだ、僕は」というような「アイデンティティへの反発」が感じられる、骨太な一冊。舞城王太郎作品を読み終わった時の、共通する感覚は「すっきり爽快」だと僕は勝手に思っているけれども、非常に多くのもやもやが残る一冊だった。たぶん、そこまで含めての本書だ。
主人公の僕は生まれた時から十四歳で、しかも馬から生まれた。記憶もないし名前もない、「名前なんていらない」と僕は言う。十四歳が持っているはずの常識も、「何が正しくて何が間違っているのか」という知識もないままに常識と正義を学んでいく前半部と、自分の生まれの秘密と自分自身の固有性、アイデンティティを巡る後半部、どちらも凄まじくスピード感がある。
文体のスピード感だけでなく、主人公自身がとにかく走る。走りまくる。音速とか余裕で超えて走る。主人公の初恋の人はなんと大蛇の口の中に入って同じく音速を超えて走る。なんじゃそりゃ。大蛇は一匹ではなく、大勢現れて革命軍となって、世界中の中枢人物を腹の中に飲み込み人質にとり人類と動物の和平を迫る、その騒動の中心に主人公の初恋の少女はいる、なんじゃそりゃ。
勝手に読みとったテーマについて。アイデンティティなんか、いらないじゃないかというのは新しいテーマだと思った。何かの本で読んだが、僕たちは相手の名前などというものを何十年も覚えていないものだ。久しぶりに同窓会で会った時に覚えているのは「ああ、医者の息子か」とか「ああ、あの事件を起こした人か」などの「エピソード」のみであることが多い。
「名前」は少なくとも記憶に関する限りではあまり重要ではないように感じる。僕達が圧倒的に記憶しているのは「エピソード」であって、「名前」は単に、その人自身と他の人を区分けするだけの便宜的な記号にしか価値はないのではないか。名は体を表す、などといったりもするが、人間はそこまで単純ではない。蛇は聖書においては人間に食べてはいけないリンゴをそそのかす悪い存在として描かれるけれども、蛇は、蛇であって、それ以上でもそれ以下でもない。
この『獣の樹』は、最後まで読むと続編があるように思える。とても話がまとまっているようには思えない。事実、続編があるのだろうと思うけれども、しかしこの一冊だけで見てもこの恋愛も国際規模のテロルも、個々のアイデンティティを巡る物語も、ぐちゃぐちゃにしてまとまりがないこの物語は「まとめないこと」の大切さを物語っているような気がして、このまとまりの悪さがむしろ善いものに思えてくる。まとめてしまうと、そこで思考は停止してしまうから。
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/07/07
- メディア: 新書
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