基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ビッチマグネット

主人公は女子高生あたりの女の子、香緒里で弟と妙に仲が良くて一緒にお布団で寝たりする。姉萌え小説でもある。父親は浮気を繰り返す最低男で弟はビッチに振り回され自分は自分で人間の精神に興味を持ち始める。──冬木糸一が自分で書いたあらすじ

舞城王太郎著。大変おもしろかった。最後の、前向きな内容に、ほろっと泣いた。獣の樹よりは、こちらを先に読むべきだったかな。テーマの転換点のようなものが、こっちには感じられた。具体的に言うと、それはつまり非常に単純なことながら「人間とは何か」ということなのだと思う。

人間とは何か、とだけ書いても意味が分からないけど、要するに身の回りに存在する全ての一般人たちをよく観察してみるとその中にはとても複雑な行動様式、思考様式が詰まっていて、とてもじゃないけれどひと言でその属性を表現することは不可能なわけです。不可能だけれども、その不可能には挑戦したくなる。一番身近に存在する謎は、隣の人が何を考えているのだろう? ということなのだから。だから本書でも家族が最初に書かれる。家族の内面でさえも僕たちは見過ごし、見逃し、見損なっている。

優しい人、怒りっぽい人、泣き虫、そんな属性をいくら貼りつけてみたところで人間が一人出来上がるわけではない。では人間を構成している、肉体と精神を構成しているものはいったいなんなのか。それが僕がかってに読みとった本書のテーマ。ぶっちゃけ全ての文学はその人間と言う複雑な層を一枚一枚剥がす、もしくは描写していき最後に何が残るのかを確かめようとしてきた歴史なのではないかと僕などは勝手に思っているのだけれども、要するに舞城王太郎も本腰を挙げてそこに取り組み始めたのではないか。

舞城王太郎は「物語」を手がかりにして人間を解体していく。なぜなら、物語というものは、もちろんこの『ビッチマグネット』のような小説、それから映画、漫画、全てに宿るものでもあるけれども、人々の思考の中にも宿っている。というよりかは、思考を構成するものこそが「物語」なのだというのが本書の主張だと思う。

たとえば非常に単純なたとえだけれども、電車の中で大声で電話する女子高生へと注意をしたとする。その人は電車の中では大声で電話をしてはいけない物語の住民で、さらにはその中でも悪い事をしている物語中の悪を成敗する正義の一般市民になる。たとえば自分の両親について、「優しい人だ」とか「厳しい人だ」とか、色々あるかもしれないけれどそれは自分から見た、自分の物語の中に生きる両親の姿でしか無い。

結局、人の価値観、記憶、願いも祈りも歴史も全てが物語なのだ。起こった事はそれが起こった瞬間に物語になり、起こっていない理想も夢もすべて物語として存在している。そしてひとりの人間はひとつの物語を生きるわけではなくて、多種多様な物語を自分の中に抱え込んでいる。物語を読む意味の一つは、ここにあるのだろうと読んでいたら思った。自分の知らない物語を知ることによって、自分の世界が広がるのだ。人間は、無数の物語でできているのだから。

ビッチマグネット

ビッチマグネット