著者はイラン人で現在はヨーロッパ在住のファルハド・ホスロハヴァル。イラン問題における権威だという。どうでもいいのだけれども、イスラム世界、イラクとかその辺の人達の名前は日本人からすればちんぷんかんぷんすぎて名前がいっぱい出てきたけどさっぱりおぼえられなかった。
名前もそうだけれども場所的にも日本とはかなり隔絶した位置にあるイスラム世界は、そのイメージもまた距離のせいか画一的な報道のせいか僕らかすれば非常に単純である。自爆テロを行うのは一部の狂信者であり、自身の宗教にしたがって聖戦を仕掛け、殉教を行う。
しかしその内実は言葉にするほど単純ではなく、スンニ派シーア派でわかれていたりそもそもが属する組織、国の違いによってどんどん複雑に、細分化していく。著者は実地で捉えられている過激派へのインタビューを通して、生のイスラム世界の現状を伝えていく。
「なぜ自爆攻撃なのか」という問いに対する答えは無数にあるだろうけれども、ひとつ「やっぱりな」と思ったのは、殉教という概念がイスラム世界ではかなり美化されていること。本来的には殉教にも二通り意味があり、たとえばキリスト教なんかでは、宗教者が迫害された時に、宗教を裏切れと命じられてもそれに応じず殺されるタイプを護りの殉教。もうひとつは抑圧者に対して攻撃を挑み、犠牲になるかもしれないがまあそれもいっかというのが攻めの殉教である。
言うまでもなくイスラム世界における一部の過激派が行っているのは後者、攻めの殉教であり、いつのまにか殉教は「天国に行く為に望まれるもの」という概念に変化を遂げて行った。宗教のために自己を犠牲にすることは、非宗教的な圧制者に対する戦いの結果なのだ。シーク教徒にとっては、殉教者は尊敬の対象であると同時に美徳、真実、の象徴であり、道徳的な規範でもある。
考え方が人間を自爆攻撃へと向かわせる。そもそもなぜそこまでイスラムが攻撃的になるのかというと、コーランには相手への攻撃を勧めるような記述があるからだ。聖戦、ジハードというのがそれで、基本的には防衛し、攻められたときのみ相手を殲滅せよという教えだが、現状では解釈次第でいくらでも攻撃を受けたことにできるのでまったく恐ろしい記述であると言わざるを得ない。右の頬をぶたれたら左も差しだしてくれ。
- 作者: ファルハド・ホスロハヴァル,早良哲夫
- 出版社/メーカー: 青灯社
- 発売日: 2010/06/28
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