いやいやこれは大変面白かった。読み終わった時にはその長い旅の終わりに思わず涙が出てしまったぐらい。とりあえず今年読んだ中ではかなりベストに近い位置にいる面白さです。笑いあり、涙あり、ラブストーリーあり、雑学が増え、さらには知的探求の冒険譚として読める、ノンフィクションでありながらにしてフィクションの感動を伴った名著だと思います。
アメリカに存在する百科事典ブリタニカをAからZまで読みとおすという試み、その日記が本書の内容です。ブリタニカがどれぐらいの分量を誇っている百科事典なのかを少々説明しましょう。
全部で三十二巻、三万三千ページ、六万五千項目、執筆者九千五百人、図版二万四千点。各巻は重さが二キロほどあり、大判の薄い紙に文字がびっしり刷られている。単語数は四千四百万語。*1
数字だけみても圧巻のひと言。これを読みとおそうと言うのだから、並大抵の覚悟ではいられない。気になるのは、なぜそんな無茶なことをしなければならないのかということだ。
ここにも色々ドラマがある。著者は子供の頃、世界一頭のいい人間であると考えていたが、それは当然ながらうぬぼれであった。35歳になって知的レベルは下がる一方。そんな状況から抜け出す為に、百科事典を全部読みとおすのだ、と著者のジェイコブズは一念発起する。
百科事典を全部読んだからと言って世界一頭のいい人間になれるはずがないのは当然のことで、理由は他にもいくつかある。まず著者には過大ともいえる他者へのコンプレックスがあって、四六時中自分と周りにいる誰かを比較して、鬱になっている。
最も身近にいる他人の父へのコンプレックスが一番大きく、その父は過去にこの百科事典を読みとおそうとしてBのセクションで挫折した。つまり今回の試みは、父を乗り越えるための試練ともなる。今まで幾つもの物語が父を乗り越える話を生産してきたけれども、本書のその例にのる。
面白いのはそんな彼を取り巻く周囲の人々でもある。彼の義兄であるエリックは事あるごとに知識をひけらかして、ジェイコブズが知らないことに対して「まだそのセクションまで進んでいないのかい?(笑)」と挑発するし、彼が自分の偉大なる旅路を認めてもらおうと数々の人に百科事典読破を自慢しても誰もが「ほんとに覚えてるの?(笑)」「そんなことして本当に頭が良くなると思っているの?(笑)」と惨憺たる有様。
しかし彼に味方をしてくれる人たちもいて、常に甘やかしてくれた母、それから妻のジュリーは毎日毎日無関係な雑学を聞かされてキレてもよさそうなものだが素晴らしいジョークで応じてくれるし、エリックにイジめられる彼を、護ってやったりする。ほとんど理想的なお嫁さんで、この二人のやり取りだけでも心が温まる。
世の中には不幸な家庭の話ばっかりが溢れているけれども、僕は断然幸せな家庭の話の方が好きだ。そうはいっても四六時中ブリタニカで得た知識を披露させられる妻とその夫に護ってもらう夫という家庭が、幸せかと言うと客観的には疑問が残るけれども二人は楽しそうだ。
本書は何も百科事典で面白かった事だけを書きつづるいわゆる「読書日記」ではない。通常の身辺のことを書きつづっていることがよくある。中でも頻出するのが「子どもができない」という悩みで、あやしげな風水からおまじないの道具にまで手を出してまで子供を得ようとするがなかなか得られない悩みが延々と書かれる。
そうかと思えば知識をひけらかしてやろうとクイズ・ミリオネアに出演する話や、ディベートに出てこてんぱんにされる話や、読むのが面倒くさくなって速読教室や記憶術講座に通う話や(こういうところが本当に即物的で笑える)がてんこもりで、こちらも大変面白い。なんというか、愛きょうがあるのだ。
そして何と言っても外せないのが「知の探求」だ。思わず最後には鳴いてしまった。それは知の探求が、別に誰かが死んでしまったわけでも、復活を遂げたわけでも、あるいは地球へ向かってくる隕石の爆破任務を多大な犠牲を払いながらも成し遂げたわけでもなく、ハックルベリーフィンの冒険のような肉体的な探求に勝るとも劣らない、感動的な冒険だからだ。
僕らがこういう本を読んで、知的な興奮を覚えるのは著者の長い旅を疑似体験しているからでもあるし、「いったいブリタニカ百科事典を全部読んだ男は、最後の瞬間に何を思うのだろう」という好奇心を誘うからでもある。僕はそれを是非読んで確かめてほしいと思うけれども、僕自身ここまで読み終えたと言う印に確認としてここに残しておきたい。それで締めとする。
ぼくは睡眠不足に悩まされ、『ザ・シンプソンズを何回分も見損ねたけれど、『ブリタニカ』を読んでよかったと思っている。ぼくはオポッサムには乳首が十三個あるのを知っている。この一年間に自分が何百回も矛盾したことを考えたこと、歴史が無数の矛盾を繰り返してきたことを知っている。ぼくは牡蠣が性別を変えること、トルコを代表する前衛文芸雑誌の名前がヴァルリクであることを知っている。冒険には常にイエスを言わなければ、退屈な人生を送ることになると知っている。知識と知性は同じものではないが、同じ界隈に住んでいるのを知っている。ぼくは学ぶことの愉しさをふたたび知ることが出来た。そして今は普通の生活に戻り、もうすぐ妻と愉しい食事に出ようとしている』*2
- 作者: A・J・ジェイコブズ,黒原敏行
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2005/08/03
- メディア: 文庫
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