基本読書

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わたしを離さないで

話題になったのは大分前で、ひどく今更という気もするけれど。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読みました。これが大変面白かった。

僕はいつもいつも面白かったというのでどれぐらい面白かったのか伝わらないと思うので具体的にたとえ話を用いて説明すると、いつもの大変面白かったがドラゴンボールでいうところのナッパぐらいだとしたら今回の大変面白かったはスーパーサイヤ人になったときの悟空ぐらいだった。

本書『わたしを離さないで』の抽象的な感想については、柴田元幸先生の解説が非常に秀逸で、読んだ時に思わずもう言う事はねえな……と思ってしまったぐらいだったので少し紹介する。

「細部まで抑制が利いた」「入念に構成された」といった賛辞が小説について口にされるとき、その賛辞はどこか醒めた感じに聞こえてしまうことが少なくない。むろん好みは人それぞれだが、我々の多くは、書き手があたかも抑制などいっさいかなぐり捨てたかのような、我を忘れて書いたように思える作品に仰天させられることを求めているのではないだろうか。
 日本生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロの第六長編にあたる本書『わたしを離さないで』は、細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる、きわめて希有な小説である。*1

まったく。特にうんうんと頷いてしまったのは「細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる」という部分。

最初は、のどかな学校でのささやかな人間関係が語られる。そこではイジメがあり、それを冷ややかな目で見ている語りてのキャシーと、その友達で人に見栄を張るクセがあるルース、イジメられていたけれども、次第に周囲と心を通わせていくことのできるトミーがいる。

しかしその学校には、ほのめかし程度に語られる幾つかの単語がある。提供者、介護人、そして学校は周囲から隔離されている。最初は何もわからないけれども、幸せで誰にもありがちな学校生活が、キャシーが成長した未来から、過去を回想するという形で語られていく。

学校は何のために作られ、その未来はどうなるのか。情報が小出しにされ……というよりかは、子供時代のキャシー達と、同じ情報しか与えられない。キャシー達が自分たちって何なの? と問う時、読者もまた、「この子たちは一体何なんだろう?」と問いかけている。シンクロしている。

読みとれるテーマの一つには、「未来に希望が無いと知っていても、生きようと思うか?」というものがあると思う。たとえば一年後にあなたは死ぬのだ、と言われて、なおより良く生きようと思うだろうか。努力しようと思うだろうか。答えは色々あると思う。

幾つものテーマが読みとれるのが良い点でもある。本当に、色々あると思う。ただ本書の痛い点は、それを未読の人とはおおっぴらには語れないと言う点で、既読者限定で読書会をやったら大変楽しそうだ。

だんだんと物事を知っていくキャシー達を読むのは、まるで人生の追体験のようにも感じる。同時に、知ることが希望を生むわけでも、世界を別段広げてくれるわけでもないことを。大抵、知ることはがっかりを伴う。どうも人は知る前の空想をしている限りでは、良い方に良い方に考えるクセがあるらしい。

本書の終わり方はとても素晴らしい。最後の最後まで抑制されていて、これ以上ない終わり方だ。さっき書いたテーマの答えに僕は、「生きようと思う、希望は空想できるから、ただし空想だけしてもいられない、受け入れるときは受け入れる」というひどく曖昧な答え方をするとだろうと、本書を読み終えた後だと思う。

かなりのオススメ。

わたしを離さないで

わたしを離さないで

*1:p.345