基本読書

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もしもソクラテスに口説かれたら―愛について・自己について

お茶の水女子大学教授の土屋さんがゼミで「もしもソクラテスに口説かれたらどうするか」というテーマで行った討論を一冊にまとめたもの。授業の討論風のまとめと言えば最近読んだ中では『東大生の論理』が新しいけれども、東大生ほど整然と、何かを主張する意見はでないものの「よくわかんないけど、何かがおかしい気がする」とだけ主張する学生から丹念に「何をおかしいと感じるのかちゃんと考えさせていく」という点でこちらは「思考への誘導」がすぐれている。

そうか、最初は「なんかそんな気がする」だけでも思考のきっかけとしては十分なんだなと思った。「なぜそんな気がするんだろう?」を自分に質問を重ねて行けば、それは思考になる。あと討論されている内容はソクラテスの短いテキストを元にしていて、簡潔でわかりやすく誰でもすぐに自分の意見を述べられる。

ソクラテスの口説き方を簡単に説明するとこうなる。大工がノミを使った時に、大工とノミは別の物である。主婦が包丁を使って野菜を切った時、主婦と包丁は別の物である。大工がノミを使う、主婦が包丁を使う時に使うものは手である。つまりその人自身と手、ひいては身体は別のものである。だからその人自身を本当に愛するといったら、それは身体は関係なく魂を愛するはずである。ほかの男はあなたの身体を愛しているが、わたしだけはあなたの魂を愛している。だからあなた自身を愛しているのはわたしだけだ。

身体なんか関係ないということはつまり会わずにメールだけしていればそれでいいという話でもあるし、下半身が全部なくなっても、手がなくなっても顔がなくなってもどうでもいいということになる。多くの人はこれに違和感を覚えるはずだと思うけれど、僕も色々考えてみた。まずどう考えても自分の魂とやらは身体の影響を強く受けるだろうと言う事。

そもそも不変の魂なんてものを信じていないのだけど(周囲の環境と受け入れた思想の集積物が一個の人格のように自分自身に錯覚を与えているだけじゃないかっって気がする。身体がかってに動く→意識が自分で動かしたと認識するという順番)ここでは「魂なんてないから魂は愛せないよ」となったら話はそこで終わってしまう。

だから無視して考えてみるとハンサムだった場合と顔面が崩壊状態だった場合は性格は当然変わるでしょうし、読んだ本、経験によって人格形成のレールがかなりズレるのは当たり前の話で。本書を読み進めて行くと「でも野菜ばっかり食べている人を愛する時に野菜も愛さなきゃいけないわけじゃないでしょう?」と反論がある。

野菜とその人はたしかに別ものだけど、でも一部じゃんとは思うんですけどね。「でも野菜がなくなって一部が欠けてもその人はその人ですよね?」と、そうなんですけどね。でもそんなの言い訳だと思うのです。野菜が欠けても大丈夫だ、今までその人を形作ってきた本が丸々なくなってもまあその人かもしれない。だけどどこかの一点で一部の欠けが許容量を超えた時にその人はその人ではなくなると思うんだよね。

意識が無くなって植物状態になった人の場合「どこからどこまでをいきているというのか?」は今でもラインがハッキリしない深刻な問題だけれども「どの要素を排除したらAはAでなくなるのか?」と考えていくのも延長線上にある難しさだなあ「魂」だけを愛すのは無理なんじゃないかなあと最初に思ったのです。

読み進めて行くとだいたいこれはアリストテレスの考え方と似たようなもので、結局答えは出てきません。他にも色々な説が出て、可能性を一つ一つ潰していくんですけど、これは土屋先生流のソクラテス講義なんだな、というのが読み終わった感想。

「哲学に関心の無い人を哲学的思考に巻き込んでしまうソクラテスの技量は神業としか思えません。」と最後には書いてあるけれども、その神業を利用して哲学を今浮揚させようとする土屋先生のやり方も神業でした。

「テメーの身体はどうでもいいけど魂は愛してるYO」って言われたらどう思います?