タイトルからも現れている「希望は与えられるものではない、自分たちの手で作り上げるものだ」という思想が希望の本質としていきなり興味深い。本書は希望学と呼ばれるものの解説的内容になっているけれど、希望学って書くとスッゴイ胡散くさいなあ(笑)。
しかし将来への不安が積み重なっていき、村上龍の小説『希望の国のエクソダス』に出てくる印象的なセリフ「この国には何でもある ただ希望だけがない」が現実の物となっている感がある今、必要とされている学問なのだろうな。
具体的な内容としては第一章希望とは何か 第二章希望はなぜ失われたのか では日本から希望が失われたことを統計学的に調べ、第三章では希望と物語の密接な関係を論じ、第四章では希望のつくり方が述べられる。
そもそも希望とは何なのかと言えば厳密な定義があるとは(必要だとは)限らないのですが、一応希望学では希望の定義を「Hope is a Wish for something to Come True by Action」「行動によって何かを実現しようとする気持ち」としているそうです。
希望とは個人の願いから生まれることからWIsh。具体的な希望となる何かがなければいけないことからSomething。そして実現する(Come true)とその為に行動を起こすこと(Action)が続きます。希望がない状態には、その中のどれかが欠けているのだ、というんですね。何もやりたいことがなかったり、もしくはやりたいことはあってもその為の行動を起こしていなかったり。
そう考えると今の日本に希望がないように見えるのは、やりたいことがあっても最初から出来ない、もしくは圧倒的にハードルが高いように見えたり、大抵の充足はすぐに実現してしまうことが原因かもしれないですね。
面白いな! と思ったのが、「希望に何が必要かをひとことで」と問われた時にどのように答えたのか? という問いに対して、「結局、希望には遊びが一番大事だと思うんです*1」と答えているところ。希望って、別になくても生きていけるものなんですよね、遊びと同じく。
元から幸福で満足している人なら希望なんて別にいらないですし、そもそも何かを希望したってその先には「失望」という悲しみが待っているのかもしれないのです。悲しみを受けなければいけないぐらいなら希望なんて持たない方がいいという考え方だってあるはず。
途中、女性が会社を次々とやめていく会社の調査担当が対策を講じるべく、辞めた女性に理由を率直に訪ねて観たそうです。その理由は大きく二つに集約されて、一つは「先がまったく見えないからやめた」で二つ目は「このまま会社で働いても先が見えてしまったから辞めた」だそうです。
対称的な答えですけれども、これはどちらも働く希望が失われていることを示していると言います。先がまったく見えないからやめるのはなんとなくわかります。今就職活動を行っている人たちが不安がるのも、多くは「本当に就職できるのだろうか?」と心配だからでしょう。確証が何もなく悲観的な想像の未来に希望は持てません。
ただし「先が見えすぎても」希望は失われてしまうようなのですよね。これ、ちょっと意外だなぁと思ったんですけどこの先ずっと同じ生活が続く、と考えてしまったら、その先に新しい何かは見いだせないでしょう。「わくわくする何か」が希望には必要なのかもしれません。何しろ「個人の願い」が希望の定義の最初に来るわけですから。
で、これってまさに「遊び」だよなあって思うわけです。絶対にクリアできるとわかっているゲームなんか、やってても面白くないでしょう? Aボタン連打しているだけで勝てるストリートファイターなんてやりたいと思いますか? 同時に敵が強すぎて何百時間もやりこんでも敵が倒せないゲームだってやる気が起きないはずです。
『遊びのある社会こそ、創造性は生まれますし、希望もつくりだせるのです。*2』
これからの社会で最も重要な概念はこの「遊び」かもしれないなあと、読み終えて思いました。
- 作者: 玄田有史
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/10/21
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