基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

人間は笑う葦である

哲学教授である土屋賢二先生のエッセイ集。十年前に出た文庫なので今更何を書くのだという感じだけど、面白い。げらげら笑いながら読んだ。漫画や映像でかなり笑い転げたことはあるけれど、文章でここまで笑ったことは初めてだ。一ページで多ければ三回、少なくとも一回は笑える。なぜここまで笑えるのかとても不思議である。

笑いの一面はメタ化であるように思える。要するに今まで普通に接してきた行動を、違う角度から眺めてみることによっておかしさを浮き彫りにする。ここで「たとえばこういうのがメタ化の一例である」とかいってぱぱっと即興で何か例をあげられればそれは凄いことなのだけれども、正直言って僕には笑いのセンスはないようで何も思い浮かばない。

なので引用することにする。『まえがき』からしてすでに文章は飛ばしまくっている。

 本書は、これまでにいろいろな雑誌に発表したエッセイをまとめたものである。中には「どこが<まとめた>なんだ。何の秩序もないじゃないか」と思う人もいるのだろうが、こういう人はものごとを深く見ないで断定するタイプだと断定できる。よく見ていただければ分かると思うが、整然とページ順に並んでいるはずである。

これも一種のメタ化であるといえなくもない、ような気がする。ここまではぐらかしてしまうともはや何も言っていないに等しいけれども、断定すると間違っていた時にごめんなさいしないといけないので僕はいつもこうやってはぐらかしながら書いている。だから読んでいて不快な気分になってくる。

と、今のような文章がつまりメタ化である。これは自分自身をメタ化してみせた一例である。今度はちゃんと出来たぞ! 引用部が面白いのは「秩序」の捉え方を別の角度からやってみせたことにある。最初に定義されているように見える「秩序」の意味は、「内容的な意味での秩序」であるが、土屋先生がそのすぐ後で持ってくる「秩序」は「本来どの本でも当たり前に存在している秩序」である。

単なる屁理屈といえるのだけれども、それでも秩序は秩序である。「そういえば秩序はそこにもあったな」という風に、別の視点に気付かせることが「笑い」の一つの効用と言えなくもない。土屋先生が凄いのは、まるで呼吸でもするかのように自然にこの「変なところから物を見て、しかも笑わせる」ことをやってのけているかのように「読める」ところである。

実際にすらすらと一息で書いているのかどうかは問題ではなく、「すらすらと一息で書いているように読める」のが凄い。笑いには肩肘ばった緊張感は必要ないのだけれども、笑いは生み出すのが難しいので(少なくとも感動よりかは難しいだろう)「自然に」やってのけるのは難しいのだ。

笑いたい人にはお勧めといえる。

人間は笑う葦である (文春文庫)

人間は笑う葦である (文春文庫)