基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

日の名残り

これから僕は「執事とは何か」と聞かれたらこの『日の名残り』をスっと差し出そう。

しかし「執事とは何か」と聞かれることが僕の残りの人生で一度でもあるとはとても思えない。だから「執事とは何か」と聞かれなくても「おもしろい小説ない?」と聞かれたら『日の名残り』とだけ答えることにしましょう。いやちょっとオーバーだった。ごめん。

でもとても面白かったです。時代は1956年、場所は伝統のある紳士的なイメージが崩れつつあるイギリス。回想形式で語られ、過去を淡々と語っていくのは品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンス。彼もまた、長い年月を執事として過ごし、身体にだんだんとガタがきはじめてきた、イギリスの一つの象徴であります。

長い間お屋敷ダーリントン・ホールにてダーリントン卿へと仕えてきたものの、今はアメリカからやってきたファラディに、お屋敷ごと買われ雇われています。数々の著名人の社交場になり、重要な政策決定までが行われ多くの執事が携わってきたダーリントン・ホールも今は執事数人を残すのみで、来客もほとんどないありさま。

ある日、幾日かの休暇をもらったスティーブンスは、過去にダーリントン・ホールで働き、今は結婚しているケントから家庭生活がうまくいっていないという手紙をもらい、再度屋敷を手伝えないかと一週間ほどの旅行に出かけます。道中、伝統的なイギリスの風景、過去の栄光、自身の栄光、すべてを振り返りながら、現代へと至る。

その見事な構成と、過去の伝統への郷愁、まさに『日の名残り』といえるその内容に、読んでいて胸が熱くなるのです。そもそも「消えゆくものへの郷愁」というのは、「サクラ」を愛する日本人の精神性と強く合致しているような気がします。カズオ・イシグロが書くのは執事なのですが、まるで日本の武士か何かのような気がしてくる。

スティーブンスというのは、本当に愛すべき人物なんですよね。真面目で、馬鹿正直、自分では何一つ考えず、主人を盲目的に信じ、尽くすことが執事の品格だと信じて疑わない。あまりに真面目なので、真面目に「ジョークがあると主人が喜ぶだろうからジョークを分析しよう」などといって、ジョークの練習をするのですが、笑ってしまいます。

これは、悲劇的な話でもあります。馬鹿正直で一つのことを盲目的に信じてきた男が、過去を振り返りながらだんだんと自分の人生を見つめなおしていく。仮にスティーブインスがイギリスの象徴なのだとすれば、本書がシンプルな過去を賛美する物語にはなっていないことがよくわかります。過去は良かったかもしれない、悪かったかもしれない、しかし前に歩き続けていかなければならない。

「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方がいちばんいい時間だって言うよ」

今引用したのは、最後にたどり着いた場所でスティーブンスが通りすがりの60後半の男に言われた最後の文章なのですが、ううんたしかに。夕方が一日でいちばんいい時間なのかもしれません。夕方はもちろんイギリスの比喩であり、ひとりの人間の人生の比喩であり、そのままの意味でもあります。

いやあ、「美しい」物語でした。文章も、書かれているイギリスも、人物も。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)