基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

MORI LOG ACADEMY〈2〉1年のケーキ元旦に飽き

先日誕生日だった。別にそれだけならここに書くことでもないのだが森博嗣先生の『MORI LOG ACADEMY』シリーズを全部セットでプレゼントしていただいた。大変嬉しかった。どうもありがとうございます(ここを読んでいるだろうと期待して)。

そして読んだ。やはり大変面白い。本書は数年間WEBで書かれていたもので、全部が本になった現在、HPは閉じられている。最初にHRがあり、そのあとに国語算数理化社会図工の科目が一日ずつ講義のようにして書かれている。この巻は2006年の1月から3月31日までの日記だが、今読んでも何ら言葉が古びていない。

言っていることも一貫してブレていない。いかに森先生が論理的に考えているかがわかるかというものだ。これほど手元に置いておくのが嬉しい本もなかなかない。僕は森先生の小説は『喜嶋先生の静かな世界』と『四季』しか手元に持っていないがエッセイのようなものは大体全部持っている。

幾つか覚えておきたい事を引用して残しておこう。一巻について書いた時は長々とした引用はやめておいたのだが(一部とはいえ無断アップロードと変わらないと思う)グレーゾーンに期待してやってしまう。グレーゾーンに期待してやってしまうというのは、あんまりいい心がけとはいえない。

それでも強行してしまうのはなぜかと考えてみるに、他人にもこの考え方を分かってほしいと考えているからだろうか。何しろ僕は普段記録の為にこのブログを書いているけれど、本を持っているならばわざわざ記録する為に引用する必要なんてないわけで。

もっと言えば引用した部分が多くの人に役に立つ、と思っているからわざわざ引用するわけである。まあ、

 人は多かれ少なかれ主観的にものを見るのが普通で、判断の大部分は主観的である。「客観的に言って」などと口では言っていても、そのあとに続く文句の70%以上は非常に主観的である。たとえ、客観的な論理が述べられていても、そのまえに主観的評価があって、単にそれらを補強するために客観的理由が持ちだされているにすぎない。
 たとえば、ある部品を差し入れるために穴をあけたとする。その穴をじっと観察して、「僕は、ここにこれが入ると思う」という判断を、世間では毎日しているのだ。しかし、それは無意味である。入るか入らないかは、僕(人)がどう考えるかには無関係なのである。大きいか小さいか、ノギスを当てればわかることだ。(中略)
 客観視するには自分から離れる必要があるわけだが、そういった視点を持つために必要なことは1つだけ、すなわち想像力である。想像という極めて主観的な能力によって、客観的視点が得られることは興味深い。(p.110-111)

「客観的に言って」と僕が過去に言ったかどうかトンと覚えてないのですが、たしかに70%以上は主観であると言われるとそうかもしれないと思えてきてしまう。というよりも多くの人は「客観的」の意味がよくわかっていないのではないか、とこの部分を読んでいたら思いました。ノギスの比喩は秀逸。「観察において実証される事実としてどうなのか」がつまるところ客観と言えるのでしょう。必要なのは想像力、と言うのも分かる話です。自分から離れるという現実にはありえない架空の事を行う為には想像力が必要なのです。

プロはアマチュアでも確実にできる方法で作り、アマチュアはプロでも難しい方法で作ろうとする。(p.173)

これは確かに。料理でも素人ほど自分の工夫を加えた独創的な物をつくろうとして失敗すると言いますしね。上級者ほど失敗のない、というよりかは失敗することまで織り込み済みの、完璧なシステムで作ろうとする。なぜだろうと考えてみる。要するに、アマチュアほど自分の実力がよくわかっていないんだろう。だから明らかに無茶なことでもよくわからずにやってしまう。あげく失敗する。普遍的な事のように思える。

 趣味というのは、hobbyのことだ。(中略)hobbyは、紳士、淑女の嗜みとのことで、創造的なことに限られる。創造的なというのは、芸術、工芸あるいは研究のことだ。(中略)創造的なことに打ち込むと、そこに発見があって、新たな視点を身につけることができる。これが、その人を客観的にし、つまり視野を広げる。趣味の効用とは、人間性が深まる気がする(自己評価)、単にそれだけである。(p.178-179)

創造の意味を森先生は「先がどうなるか分からないもの」「誰も足を踏み入れていないところに行くこと」というような意味で使っているのではないかと思われる。そこに発見があって視野を広げられるというのはつまり「知的秘境探検」ということだろう。今まで自分が知らなかったところへ足を踏み入れる。そこには当然発見がある。それは視点に繋がり、要するに世界が広がっていく。同時に想像力も。そして客観的に、人間的に深くその人をするのだろう。しかしあくまでもこれは自己評価でしかない。当たり前だ。「あなたは人間的に深いですね」という評価は客観的なデータとして出せるようなものじゃあないだろうから。

繰り返しになるが、文章を書くときに必要なことは、読む相手を想定すること。その人に伝わるように書く、という訓練が重要だ。(p.232)

肝に銘じておかなければ!

ここまで書いてきて思ったけれど、やっぱり僕は何かを考える時には文章にしないと考えられない傾向がある、ような気がする。いつも何かを考えようとするのだが、考えた瞬間、片っ端から忘れて行ってしまうのだ。結局何も積み上がっていかず、結果何も考えられない。最初にあまり好ましくないと思っている引用を強行してしまう理由を、きっと人にも役に立つから、と書いたが結局のところ「書いて考える」自分の為なのかも知れない、と思った。