基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ゴールデンボーイ

 むこうはこの作品を読んでうろたえた。ひどくうろたえた。真に迫りすぎているというんだ。かりに外宇宙を舞台にして、これと同じ物語を書いたとしたら、べつに文句はでなかったかもしれない。それだったら、居心地のいいクッションがあいだに挟まるからね。「どうせただの作り話なんだから、なんてことはないさ」というわけだ。
 そのときに思ったよ。「どうだ、またやったぞ。ぼくは本当にだれかの皮膚の下まで食いこむような小説を書いたんだ」あれは気分のいいものだ。だれかの股ぐらに手をつっこんだような、あの気分が好きなんだ。前からぼくの創作の一部には、そういう原始的な衝動がある。

上に引用したのは本書に収められている二編の中編のうちの『ゴールデンボーイ』という作品に対するキングの語ったことだそうですが、素晴らしい。物書きとはかくあるべし、と僕は物書きでもないのに勝手に思っている通りのことです。それはつまりこういうこと。多くの人がうんうんと頷くだけの内容を書いているうちは、それには価値があるとは言い難いと思う。物書きならばやはり、まったく想像外のこと、現状の視点を激しく揺るがして、びびらせてしまうような、そういった視点、切り口、パワーが必要なのではないか。

スティーヴン・キングスティーヴン・キング作品の凄み、といったものを感じました。とにかく圧倒的。なにがって、何もかもが。文章は、情景がありありと思い描ける優れた描写(数日前に書いたことは忘れて下さい)、真に迫った心情描写(書いているのはいづれも特殊な環境下における人の思考、だけれど、そこには確かに「あるかも」と思える真実味がある)巧みな状況設定、展開、そのどれもが高い水準で保たれている。って、世界的に評価されている作家に今更こんなこと言っても何言ってんだお前って感じでしょうが、とにかく実感しました。

特にあらすじとかは書きませんので適当にネタバレのようなネタバレじゃないような感想でも。最初の中編『刑務所のリタ・ヘイワース』漫画にするなら絶対に荒木飛呂彦だなあと思った。監獄物っていうとやっぱり、どうしても、荒木飛呂彦が浮かんでしまう。それだけでなく、うーんなんていうかな、とても強い意志を持った人間が出てくるのです。テーマは、自由とは何か、です(断定)。

刑務所という現実的に存在する閉鎖空間の中で、いったい人間はどれだけの希望、そして「自由」を持つことが出来るのか。それは、身体がシャバに出ていけないとか、そういう空間的な自由だけではなく。精神の自由のことでもあります。刑務所という規律のある時間間隔、看守の指示、同じ犯罪者たちとの人間関係に飼いならされることなく、どこまで「自由」を保てるのか。それをある種徹底的に、強い意志を持ってやりぬく人間が出てくる。

この中編はそれを、傍から見て憧れている人間の視点から書かれているけれど、これはまさに読者の大多数であろう。徹底的に、何物にも屈せず自由でいるヒーローに、僕らは憧れる。自分はまずそんな凄い人間にはなれないだろう、と思いながらも、しかしどこかで自分も少しは行けるのではないか、と夢想する。その為にはまず、「夢想するヒーロー」がいなくてはならない。それをこの中編は与えてくれる。

表題作にもなっている『ゴールデンボーイ』。たしかに衝撃的な内容。心に暴力への憧れを抱えた少年と、ナチで実際に暴力をふるってきた爺さんとの交流の話。この二人のお互いの秘密を握りあった状況からの、どちらかが密告をすれば二人とも破滅するというお互いの頭に拳銃を突きつけあっている状況下での、交流が素晴らしい。お互いに相手が自分の急所を狙っており、そこに極度のストレスを感じながらもどこか愉しんでいる。

この作品に関して言えば、テーマといったものは意味をなさないと思う。書いてしまえばこれはシンプルな考え方で、私たちは、ふとした一瞬の状況が揃った瞬間に、何か黒い、悪い方向へと落ちてしまうのではないかというのがそれだ。黒いセレンディピティー。一瞬のひらめきが、人を「悪」とされる方角へ進ませる。しかし……、説明は簡単だけれどもそれだけだと誰の心にも残らない。キングの言葉を借りて言えば、皮膚の下まで、まったく食いこんでこない。

小説で読んでこそだ。デスノートやこのゴールデンボーイのように、明らかに悪とされている行為を実行してしまう主人公にした話がどこか人を惹きつけるのは、やはり僕達の中に「そちらへ落ちてしまう可能性」が人知れず眠っているからだろう。

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)