基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

スタンド・バイ・ミー

うーん凄いなあ。スティーヴン・キング。ホラーで有名だけど、本作はホラーではない。しかし、ホラー作家というのはよくわかる。スタンド・バイ・ミーは、死体を発見しに行く少年たちの話だ。わざわざ死体を見に行くのは、怖い物みたさ、というやつだろうか。どうも人間はジェットコースターにわざわざ乗ったり、肝試しをしたり、お化け屋敷に入ったり、「わざわざ怖い目に会いにいく」のが随分と好きなようだ。

なんでわざわざ怖い目に遭いたがるのかと言えば、言うまでも無く怖い目に遭う事で、生きている実感を得たいからだろう。ギリギリの恐怖を味わって、ふー、生きているって素晴らしい、と実感する。なんでそんな面倒くさいことをしなければいけないんだ? 最初っから誰もが生きている実感を得るように出来ていれば面倒もなくていいのに、とも思うけれど、大げさに言うと、たぶんそういった怖いけど見たい、といった矛盾した心境が、人の文明を発展させる原動力になっているように、周りを見渡してみると思う。結局、恐怖を別の角度から見ただけで、この作品もホラーと言えるんじゃないだろうか。

主人公のゴーディは、長い長い道のりを、歩いて歩いて、死体をついに発見した。その時に、後から車でやってきた年上の連中に対して怒りをあらわにする場面がある。『彼らは車でやってきた──それがわたしをなによりも激怒させた。彼らは車でやってきたのだ』。僕はこの部分が随分気に入った。

そう、重要なのは「歩いて」やってくることだった。徒歩は、死体を発見し、それを報告し、ヒーローになる。その目的と目的達成のプロセスの為には、単なる無駄でしかない「歩いて」行くという行為が、しかしゴーディにとっては一番重要なことだった。歩いている間にゴーディ達は、ヒルに吸われ、列車に轢かれそうになり、疲れ果て、凶暴な犬と親父に追い立てられ、そしてついに目的に辿り着いたのだ。

今にして思うのは、学生時代、過去の青春への憧れのうち何割かは、そういった「無駄な」行為の数々にあるのではないかということだ。小学生、中学生の頃は多くの無駄なことをやった。失敗するし、何にもうまくいかないし、黒歴史ばっかりだし、勉強はしないし。今の自分にその時の無駄な行為が影響を与えているのかはよくわからない。さっぱり与えていないような気もする。

ただ思い出そうとすればいくらでも思い出せる小学生や中学生の頃の体験というのは、たぶんこれから先も忘れないだろうと思う。「忘れない」という、ただそれだけのことで、人に影響を与えるには充分なんじゃあないだろうか? とも思う。

なかなか熱がこもっているな。僕は小説を読む行為はここに通じているんじゃないかなと考えている。つまり「無駄だ」ということだ。無駄という考え方は何か目的がある時に生まれてくる。ある目的を達成する為に、余分な行為のことを無駄というのだろうが、しかし案外、本質はそういうところにある(こともある)のかもしれない。

そうそう、読んでいて凄い! と感動したのが、印象的な一瞬の描写なんですよね。たとえば少年たちが、左右上下どこにも逃げ場のない線路を、電車が来ないようにと祈りながら歩いている場面。当然この時、非情にも電車はやってきてしまう……のだけど、

そのことにゴーディが気づいた瞬間から、時は止まり、描写の波が押し寄せてくる。飛行機の音が聞こえ、未来からの回想が入り、舌は口蓋の天井にはりつき、筋肉は硬直し、現実を逃避し……。わけがわからないが、「緊張の一瞬」を、そのまんま「緊張の一瞬」として描写をすることはめちゃくちゃ難しいのだ、とこれを読んでいて思った。