基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

エロチック街道

筒井康隆による、だいぶむかしの短編集。なんとなく読みたくなって読んだけど、これがとんでもない奇想によって生み出された短編ばかり。この中の一編は『早口ことば』といってただひたすらに早口ことばが書いてあるだけだし(しかも恐ろしく出来が良い)、歩くときという短編などは、歩いている瞬間の脳の動き、筋肉の動きを事細やかに描写する。描写し続けるわけがわからない短編だ。それでも面白い。面白すぎる。

何がこんなに面白いのかと考えてみるに、面白ポイントはいくつかある。たとえば過剰であること。エロもグロも、シュールギャグと言えるほどに徹底的にやる。世界を全部傾けさせてみるかと思えば、日本以外全部沈没させてみせたりする。本書で言えば、ただただ歩くときの筋肉の働きを描写してみせたりする。そしてそれらを読ませる筆力がある。

筆力というのは便利な言葉で読んだ方は「ふむふむ」とは思う物のそれが実際なんなのか、説明してみよと言われてすらすらと答えられる人はなかなかいないものだと思う。調べると文章を表現する力、などと出てくる。よくわからない。文章を表現する力というのはおかしい表現ではないだろうか?

文章は道具である。それはスピーカーが音楽を聴く為の道具であるのと同じように、それは何か自分の意図したものを伝える為の道具である。なれば、文章を表現する力? 文章自体が何かを表現するものなのだから、文章で表現をする力、とした方がよいのではないか。どうでもいい気もする。文章をでも、文章で、でもどっちも一緒なのかな? まあいいや

さあ、とにかく過剰であることだけでは面白さにはならない。そこにはやはり、何かしらのリアリティがなくてはならないのだろう。ただただ過剰なだけだとバカにされているような感じがする。筒井康隆作品に出てくる人たちは、異常な状況に陥るとわりかしすぐに小便をもらしたり、突然マスタベーションを始めたりといったことを始めるけれど、そういったところにかすかな共感を覚えてしまったりする。

物事が過剰になればなっていくほど、その面白さを維持する為にはよりすぐれたリアリティ、過剰の中に隠れた欲望の解放が必要なのではないか(意味が通るかとか何も考えずに打った文章)。解説すると、普段抑圧されている部分を解放するようにして、過剰さが発揮された場面を書いた時に、どこかしら共感を覚えるのではないかという事だと思う(自分で自分を解説)。

たとえばジャズ大名という作品がこの短編集の中では僕は一番お気に入りだ。1865年、黒人のジャズミュージシャンが、アフリカへ行こうとするが、アフリカに連れて行ってやると騙され、船でこき使われ、脱出し放浪し日本に辿り着く。そこは日本の小藩で、明治維新が今まさに起ころうとしていたが小藩ゆえに特に関係もなくのんびりとやっていた。

地下に幽閉された黒人たちは狂ったようにジャズをやりまくるのだが、それが気に入った藩主がどんどん自分もやりたくなってきて、藩主の側近もやめなされとか言いながら心はうずうずして身体はリズムを刻み始めている。そしてこのリズムは、いつしか藩中へ蔓延することになる。

 殿がやり出したというので家中の者も次第に城内のあちこちでこっそり練習をはじめた。笛を吹く者、鼓を打つ者、何もできない者は台所方より鉄鍋などを借りてきて撥で叩きはじめ、源之進その他張り番になった者などはこれ幸いと演奏にあわせて撥で格子を叩き、黒人たちからリズムのとりかたやシンコペーションを教わったりしている。最初のうちこそ「殿おやめ下され。もしこのようなことが幕府の耳にでも入れば、かような白痴たる音曲を奏でるこの白痴というので厳しく罰せられまするぞ」などと意見をしていた九郎左衛門も、そもそもは山鹿流の陣太鼓免許皆伝の腕前、次第にじっとしていられなくなり、とうとう撥を二本持ってオフビートの練習を始めた。(p.249)

そう、最後の狂乱に至る前、あくまでも最初は、ごく普通に始まる。黒人たちはジャズを覚え、奴隷として苦労し、なんとかして自由を手に入れようと決死の覚悟で船からボートを盗みだして船から逃げ出す。そして逃げ出した先、牢屋の中で、狂ったように演奏を行い、それは伝染していく。このあたりのさじ加減がまったく絶妙なのだ。

誰もこんなの再現できない。天才たるゆえんである。

エロチック街道 (新潮文庫)

エロチック街道 (新潮文庫)