基本読書

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なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記

何の映画で詳しいシーンの詳細を忘れてしまったが、ある人間が事故にあって死ぬんだか重傷を負う場面から、家を出るその瞬間まで逆回しで撮った場面があった。家を出てその後悲惨な目に会うその人間は道を歩いている時に少し立ち止まったり、忘れ物をして家に帰ったり、そういった細かいタイミングをズラすような動作をして歩いていき、そして轢かれる。

どの動作がかけても轢かれる状況には至らなかったはずだ。偶然物を忘れたりしなければ。そもそも、もともとその日に予定さえなければ。しかしその人は轢かれてしまった。その映画は「なぜ私だけが苦しむのか」についてのひとつの答えを書いていた。つまるところそれは「偶然」だ。

この本の著者はユダヤ教のラビで、彼の住む地域の人々に神の教えを広げている。そんな彼が自身の息子が早老症といって長くは生きられないことを告げられる。「なぜ模範的なラビとして正しく生きてきたはずなのにこのような苦しみを与えられるのか。仮に私に不備があったとして、なぜ息子が代わりに苦しまなければならないのか」と信仰への問いを投げつける。

結局氏は宗教を捨てずに、この問題へと折り合いをつけていくのだがそのお手本となるのがヨブ記だ。よくわかんないけど聖書におさめられているヨブ記の元となった民話? は正直言って「神キチガイすなあ」としか思えないものにできあがっていて面白い。

※(超訳
まずサタンがいる。サタンは神の前にやってきて地上の人間はマジ悪いことばっかりやってて最悪だぜ、というようなことを言う。神はサタンに答えて曰く「ヨブという男を知っているか。あいつはマジすげえぜ」。サタンはこれにこたえて曰く「でもそれはお前が優遇してるからだろ、祝福を全部取り上げたらどうせすぐ神に逆らうぜ」

よしきたと神が言ってヨブには何も言わないでヨブの家を破壊し、家畜を滅ぼし、子供たちを殺し、ヨブの体中にできものを作り一瞬たりとも苦痛を感じない時はないような身体にしてしまう。妻も友人もこんなことをする神に忠誠を誓うのはやめろとヨブに言いに来るが、ヨブは神への信仰心を捨てることはなかった。最後に神が現れて友人を叱り飛ばしヨブに新しい家、財産、子供たちを授けた。めでたしめでたし。

半端ないぐらい悪人な神だが(時代を考えると新しい子供を授かれば嬉しいのかも知れんが普通怒る)あきらかにこんなものを聞かされて「そうか、神を信じていれば救われるのか」とはならない。そこで、ヨブ記の著者は話をまったく逆転して作り変えてしまった。

まずヨブはそんなひどい目にあわされたことにひどく困惑する。子供たちが殺されたのは子供たちが悪人だったからだとでもいうのか? わたしが邪悪な人間だからこんなことになったのか? こんなひどい目にあわなきゃいけないほど?

このヨブ記を読み説く為の三つの命題があります。1.神は全能でありこの世で起こることは全て神の意志である。2.神は正義であり公平であって悪しきは罰し正しきは栄える。3.ヨブは正しい。

この三つのうち二つは成立しても三つ同時に成立することはありません。ヨブを慰める為にやってくる友人達は1を信じたいがためにヨブにはどこか悪いところがあったのだと言い聞かせようとします。しかしその場合ヨブは正しい人ではなくなってしまう。仮にヨブが正しかったのに神が罰を与えたのだとしたら神は正義ではなくなってしまう。

ヨブ記はこの三つのうちどれを切り捨てるかという議論として見ることができるといいます。ヨブからすれば自分はひょっとしたら完璧ではないにしても友人たちと比べて自分だけがこんなに苦しい思いをしなければいけない理由に納得なんていきませんから神側をなんとかするしかありません。

余談ですが、この話を読んでいる限りではアメリカで熱心に宗教を信仰している人々の中には、たとえば子供が不幸な事故で亡くなってしまった時に「私たちが断食の日を守らなかったからだ」と自分の信仰心の不徹底に責任を感じてしまうことがあるようです。

最もこれは信仰をもっているかもっていないかに限った話ではないと思いますけれどね。信仰なんて無くても、子供が亡くなってしまうほどの不幸が襲いかかってきた時に「あの時にああしておけば……」と考え込んで思考が完全に停止してしまうことはよくあるように思います。

本書が導こうとしているのはそのような思考の行き止まりではありません。ヨブ記を書いた人の主張は、著者の解釈では切り捨てるべき命題は「神は全能である」という部分であるといいます。この世では正しい人に確かに不幸が降りかかる。しかしそれは神の公平さを欠いた意志ではなく、神の能力不足によるものだということです。

つまり、「なぜ私だけが苦しむのか」に対する答えは「それはただ起こったのだ」と答えるのが正しい、のでしょう。神が与えた試練ではなく、誰かの責任でもない(もちろん明確に責任がある場合を除いて)それはただ理不尽な出来事であり、正しく怒ったり悲しんだりすべきなのです。

そして、その先に起こる問いは、「これから、どうするのか」です。僕は、今まで一回も死にたいと思ったことがない(たぶん)ぐらい恵まれた生活を送って来ているからこんなことを言ってもアレかもしれないけど、今まで自分の中でいっちばん役に立った考え方っていうのは、「起こってしまったことは全て正しい」と考えることなんですよね。

死にたいと思わないまでもつらいことって結構あるわけで、そうした時に、「なんでこうなったのか」をいっぱい考えて理由を挙げるよりかは「しょうがない」「受け入れよう」「飲み込もう」という風に考える。一度受け入れたらあとはもう対応していくしかない。たぶんね、大切な人が死んじゃうとかそういう時はそんなこと言ってられないと思うんだけどね。でも大切なことは「これから、どうするのか」だと思うのは変わらないはず。

結局この本の著者はラビであり全能ではない神に祈るというあまり宗教に詳しくない自分からすれば変な感じのする信仰をもっている。宗教をもっていない日本人が読んでも微妙なんじゃないか、と思うかもしれない。ただ途中で書いたように、信仰をもっているかいないかっていうのは、人の反応にとってあまり違いはないんじゃないかと思う。

対処法も同じだ。本書が言う「信仰をもつ意味」とは、むしろ受け入れた後、前へと進む為に出てくる。信仰をもたない僕はここに関してはよく理解できなかったが、そういうものなのかもしれない。

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)