基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

村上ラヂオ

さいきん村上ラヂオ2が出た。1が出たのはもう10年も前のことだ。女性向け雑誌ananに連載されたこの村上春樹の短いエッセイはごく日常的なたわいもないことをつづったものになっている。村上春樹がみて、感じた世界(文字通り世界だ、村上春樹は世界中を点々としていてその思い出をおそらく意図的に散らばらせている)についていろいろとしることができる。その大半はひどくどうでもいいことだが遠くのどおでもいいことというのはかなり異次元な面白さがある。

たとえばハンブルクの売春宿に村上春樹が取材にいったとき、ふらっと立ち寄ったバーでの話は非常に印象的だ。そこではひとつのスクリーンでサッカーの試合を映しており、客はそれに向かってわーわー応援をしていた。しかしサッカーがハーフタイムに入った瞬間、画面はアダルトビデオに切り替わった。みていた男たちはそれを静かに見続けており、やがて十五分がたったときにまたサッカーの試合が始まると元通りわーわーと声をあげて応援を再開する。

なるほど、まったく意味が分からない。なぜサッカーの試合の合間にアダルトビデオを流さなければならないのだろうか。日本でそんなことがあったらたぶん誰かはおこりだして大多数の人は目をそむけるかそのバーから出て行くだろう。たぶん。じっと全員がアダルトビデオを見つめるような状況はちょっと想像しづらい。

もうひとつ、こんなエピソードも僕の胸を打った(この表現ちょっと面白いね)。アメリカで村上春樹が暮らし始めた頃、大学のジムの更衣室で服を着替えながらサム・クックの古い歌を口ずさんでいた。「Don't Know much about history(歴史のことはよくしらない)」と村上春樹が出だしを歌うと、三列くらい無効のロッカーで、誰かが抜群のタイミングで「Don't know much about biology(生物学のこともよく知らない)」と続きを歌ってくれた。そのときに「ああ、そうだ、僕はアメリカに来てたんだ」と感じた(僕がではなく村上春樹が)。

たしかに日本人がそんな状況で、誰かが歌っているのをロッカー越しに聞いていたとしても、絶対続きを歌ったりはしない。その場は相手を恥ずかしがらせないようにそっと立ち去り、あとでTwitterに「ロッカーの向こうで歌歌っているやつがいたwwwww」と書き込む、それが日本人のイメージだ。ま、これは若干悪口だけど、でも一緒に歌ったりはしないと思う。日本とアメリカとかって、なんというか見知らぬ人に対する対応が全然違うんだよね。

こんな風に、どうでもいいことがいっぱい知れる。どうでもいいことだから別に知らなくたって生きていけるし得するかどうかっていわれたらそんなの知らないんだけど、でもやっぱりどれだけどうでもいいことを知っているのかっていうのはその人の人生を豊かにする、はず。

村上ラヂオ (新潮文庫)

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おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2

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