基本読書

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これはペンです

円城塔先生の新作。芥川賞を賛否両論の末惜しくも逃した「これはペンです」と「良い夜を持っている」の中編を二つ収録している。正直芥川賞がどうとかはどうでもいい、凄い本だった。文章がキレているのはいつも通りだが、久しぶりに円城塔先生が普通のそこらへんのおばちゃんにもわかるように書いてくれた。今までの作品に欠けていたのはまさにこの点でしょう。自伝的、というのとは少し違うけれど、自己言及的である。それがまた良い。円城塔による円城塔の解説のようなものだからだ。

タイトルだけでは意味が何も想起されないが『これはペンです』は「書くこと」について書かれた本だ。語り手は姪であり、気違いのような所行を行う叔父を解き明かそうとするのが一応の流れ。叔父は人前に姿を見せず、自動的に論文を生成し続けるプログラムを書いた。機械によって書かれた論文。論文を書く機械についての論文。またその機械についての論文、論文、論文。

はたまたこんなものを考えてみよう。完全にランダムに配置の切り替わるキーボード。

わたしは切り替わらないキーボードを用いて、ランダムに切り替わるキーボードを書けるだろう。プログラムとして。それを実現してしまったあとで、切り替わるキーボードを用いて、切り替わらないキーボードに置換するプログラムを書くにはどうすればいいか。
 そうしたことを考えるのは、叔父について考えるのにどこか似ている。

こうしたことを考えるのは、円城塔について考えるのにどこか似ている。いや、円城塔について考えると言うよりかは、円城塔が目指している方向性について考えるのにどこか似ている。方向性とは何か。それは恐らく文章を生み出すことの出来る「方法」を問い続けるところにある。「どのようにして文章を産み出せ得るのか」を考え続けていくことに似ている。

あるいは理解することが困難なものをどのようにして理解すればいいのかという普遍的な問いにもつながっている。完全にランダムに打ち出される文字列にどのようにして意味を見出せばいいのか。インドで新たに発見された少数言語の利用者八百人は隣の住人が使う言葉をものともせず交流を成し遂げていた。二つの言葉はまったく別の言語であるというのに。

ここで言いたいのは恐らく「お互いがお互いの世界に存在するルールを把握していなくても、それが表面上もっともらしく見えていれば伝わったかのように見えてしまう」ということだ。ここに謎がある。はたして僕達は「ちゃんと相手に意志を伝えられているのか、伝わっているのか。どのようにしてこの表面上の世界は成り立っているのか」。そういったことはどのようにして知ることが出来るのだろう。

と、ここまでは普遍的な文学のテーマといえる。要するに「自分探し」みたいなものだ。円城塔はこの先へ行く。上述の問題をわかりやすくした「中国語の部屋」と呼ばれる思考実験がある。部屋にはアルファベットしか理解しない一人の英国人がいる。この部屋には紙切れが通ることが出来る小さな穴があいており、そこに中国語で書かれた手紙が差し込まれる。

英国人はそこに、マニュアルに書いてある通りの文字を新たに書き加え、元の場所から外へと提出する。すると外にいる人は「この部屋の中にいる人は中国語を理解する」と考える。しかし実際は自分が何をやっているのかわからずただ機械的に作業をこなす英国人が一人いるだけである。

わけもわからず翻訳を行う人間の閉じ込められたその部屋は意識を持つのかという問いを発する。故に機械は意識を持てないのだとその議論は主張して、反論もまた多いわけだが、叔父の意識はまた違う。自分は中国語の部屋になれるのかと、その部屋に人を引き入れることはできるのかと、叔父は多分考えている。わたしたちの交流は意識なのかと考えている。わたしはそう考えている。

中国語の部屋になれるかとはどういうことだろう。姿をくらまし、手紙のやり取りをしているだけで充分に「なっている」と言えるのではないか。言葉通りに捉えるならば「中国語の部屋に二人が入ったらどうなるのか?」というところだろうか? まあ、要するに、これも「理解することが困難なものをどのようにして理解すればいいのか」について書かれている。

此処から先、『これはペンです』はさらなる変転を見せる。理解困難なものを理解することができるのかについて、どのようにしてこの叔父を記述するのかについて。結局のところ円城塔が行なっていることはどの作品もテーマは一貫しているのですが、それがもっとも直接的な方法で現れたのが本書なのだと思います。そして一読した限り、一つの解を出しているように見える。

最近の円城塔が書く短編は正直まったく理解できないものばかりでげんなりしていました。が、これはそういう人にこそオススメしたい。語り手である姪の母親、叔父の姉のこのセリフは、円城塔が実際に言われたセリフではなかろうかと勘ぐってしまう(笑)

「あんなにわけのわからないことばかり言い続けて、それでいっぱしの顔をしているらしいけれど、誰にもわからないことを言い続けて何の得があるものかね。世間様が面白がってくれている間は良いけれど、わけのわからないことになんてみんなが飽きてしまったら、あの子は何をどうして食べて行く気か、わたしは本当に心配であるし、飽きてしまった」

素晴らしい作品でした。併録の『良い夜を待っている』も傑作なので長々と書きたいけどだいぶ書いちゃったからもう面倒臭い……。超記憶を持った父親を、その息子が語り続けるお話です。父親は眼にしたことを全て忘れない。眼にしたものをと関連したものを頭の中の街に出現させ、その関連付けで覚えるのです。

ただし父親はその幻の街と現実がごっちゃになっていて──『良い夜を待っている』はそんな父親が何を考えていたのか、どんな父親だったのか、街とはなんなのか、を解明していく一冊。これは『偉大な記憶力の物語』を参照しているので、そしてこの本も傑作なので、あわせて読んだら面白いでしょう。

そういえば芥川賞高樹のぶ子さんの選評で、小説にとって98%重要なのはイメージである。言葉はそのために使役される。しかしこの作品にはイメージがない。言葉の役割が違う、というようなことをおっしゃっていました。それはたしかにそうかな、と思うところがある。そのような小説はたしかに面白い。そして『これはペンです』はノンフィクション的なところがある。じゃあこの『これはペンです』にイメージがないのか? といえば、それは違うんじゃないかと思う。

そういえば芥川賞高樹のぶ子さんの選評で、小説にとって98%重要なのはイメージである。言葉はそのために使役される。しかしこの作品にはイメージがない。言葉の役割が違う、というようなことをおっしゃっていました。それはたしかにそうかな、と思うところがある。そのような小説はたしかに面白い(高樹のぶ子さんの本なんか、まさにその体現例だ)。そして『これはペンです』はノンフィクション的なところがある。じゃあこの『これはペンです』にイメージがないのか? といえば、それは違うんじゃないかと思う。

この小説には具体的な人間性を持った個人がいない。文学では重要視される個人がすっきり抜かれて姪とか叔父、叔母父親母親姉といった関係性だけが提示される。しかしその理由もキチンと本書では明かされる。また円城塔先生の作品には、本編に関係あるのかないのかよくわからない雑学的な知識が放り込まれていて、そこだけ読んでいるとほとんどノンフィクションを読んでいる気分になる。

なのでここには郄樹のぶ子的なイメージは確かにないのかもしれない。しかし──まったく別の概念の組み合わさった情景を見せてくれる。

それは言葉遊び的にどんな物質的な側面も持っていない。「言葉」そのもののイメージとして喚起される。自動で円周率を計算し続けるプログラムを書いて動かしたら延々と円周率を吐き出し続けるように、円城塔がこの本で試みたイメージはプログラムロジック、記号を読者の頭に放り込みそれが「読者の頭のなかで自動的に、無限に展開を続けていく」ような「メソッド」である。

それはおそらくかつて表現されたどんなものとも異なった情景を読者の頭の中に展開するだろう。小説が持っている、単なる言葉が持っている情報量なんて微々たるものだ。それでもなぜ小説が人に深い感銘を与えるかといったら、単なる記号を受け取った人間が「自発的に情報を展開」するからである。かつてはその情報の展開は、豊かな森の情景や楽しそうな子どもたちといった「現実」の描写の記号を読者の頭のなかに放り込むことで成立してきた。

円城塔がやったのはその記号化をもっと推し進めて、その代わりにそこに自発的に動き続けるメソッドを付け加えたことだ。僕はその情景が素晴らしいと思った。『良い夜を持っている』は無限をどのように効率的に記憶するか、書き表すのか、といった問いへの答えは、鳥肌が立つほど素晴らしかった。面白かった。

これはペンです

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