基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

マインド・イーター

これは素晴らしい。
僕の中ではぶっちぎりで今年ベスト(いや、まだ天冥の標が出るからわからない)。小説というのはここまで出来るものなのか…と読み終えて呆然としてしまった。

文章は「この一行を書くのにどれだけの時間をかければ到達できるんだ」という程の密度で展開し、構成は一度読んだ後に読み返すと最初からすべてが計算され尽くしていることを知らされ恐ろしくなる。知見は新しく、誰も書いたことがないような発想でもって支えられている。

その全てが高いレベルで達成されていて飛浩隆先生が解説にて『『マインド・イーター』は、疑う余地なく一九八〇年代の日本SFが成し遂げた最高の達成のひとつである』といった理由がわかる(余談だけど飛先生がTwitterでこの作品に解説を書いたと読まなかったら出版されたことに気が付きすらしなかったかもしれない。ありがたい)

本書はメインストーリーとしてマインド・イーターと称されるよくわからない物がいる世界に住む人々を書く連作短編集である。帯にはマインド・イーターについてこうある。『マインド・イーターとは、人間を完全に異質なものに変えてしまう害意をもった鉱物的存在であり、音楽であり、言語である。応戦の術はない。』

M・E(マインド・イーター)の存在は多義的に存在しそれがどのような存在なのかははっきりと明かされない。いや、明かされはするのだが、その明かされ方は非常に多義的であり矛盾をはらんでいる。

最初にこのM・Eという存在についての記述を読んだ時は、まるで神林長平氏による戦闘妖精雪風の最大の敵であるJAMのような、「まるでなんだかわからない、そもそも敵かどうかさえわからない相手」として描写され、JAMがそのように描写されたようにその何もわからない相手にひたすら思考と言葉を積み重ねてむしろ自身への思索を深めていく、そんな話になるのかと思った。

ホラー映画では何が恐怖を煽るのかというと、その相手がなんなのか、正体がわからない点である。相手の正体が確定して情報が開示されていくと共に恐怖は薄らいでいく。同時に好奇心も満足させられそれが快感に繋がっていくのだろうけれど、その過程は少し残念でもある。

JAMのような存在は正体が明かされないためそれに相対する人間は、ありとあらゆる可能性を、自問し、理解を言葉のみにたよって積み重ねていくことになる。答えは与えられずこの自問自答は、ほとんど永遠に続くかのようだ。それは理解出来ない相手を延々と理解しようとし続ける戦いである。

一方本書では、あまりにもあっさりとM・Eの情報は放出される。しかし先程にも書いたように非常に矛盾する形で。
これがJAMにはない魅力を持っている。謎を解き明かしていく過程、そして答えを得たと思えば、それと矛盾する証拠が出てくることは、M・Eは多義的な隠喩として使われ、好奇心の満足と得体のしれないものに対する恐怖感と知りたいという好奇心の持続が同時に駆動される。

そう。「憎悪の谷」でも、M・Eについてこれまでと矛盾するかのような知見が出てくる。しかしここまで読み進んできた読者は比較的容易にそれを受け入れるだろう。M・Eは、シリーズが進むにつれ、その中にいくつもの矛盾するシンボルを抱え込んだメタファーの複合体に成長しているからだ。「憎悪の谷」の、深いところで人を揺さぶる力は、このメタファーの重量感なくして成り立たないのである。

飛浩隆氏による巻末解説より

この作品は同じ世界観を共有している連作短編集だが、作品ごとに時系列的なつながりはない。年代も特に明かされないし、どの程度科学技術が発展しているのか、といった記述はない。基本的にメタファーに終始しており、だからこそ30年の時を超えて今読んでもまったく古臭さを感じられない。メタファーとはより太古の昔から変わらない普遍的なものを写しとる手段なのだ。

 いや、神話は絵空事ではありません。神話は詩です、隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にできない。だから一歩手前なんです。究極は言葉を超えている。イメージを超えている。あの生成の輪の、意識を取り囲む外輪を超えている。神話は精神をその外輪の外へと、知ることはできるがしかし語ることはできない世界へと、放り投げるのです。だから、神話は究極の真理の一歩手前の真理なんです。

『神話の力』より。
もちろん著者の科学的知見からきているところも大きい。

各短編ごとに雰囲気はガラっと変わり、それもまたこの作家、物語に対しての驚きを深めてくれる。それはもう、まったく別物、といっていいぐらいに舞台が変わるのだ。あるところではM・Eという謎の物体、生命体とそれと戦うハンターの葛藤、戦闘、宇宙の深淵を書くかとおもいきや、

次の短編ではニューヨークの片隅で音楽に携わる男女2組の人生が書かれるのだ。宇宙規模の話からいきなりニューヨークの一部の話になり非常に面食らうが、しかしニューヨークという土地からでも宇宙的な深淵、宇宙の起源へと繋がっているのだから、土地は関係なく根っこは同じなのだ。

その後も舞台は月から地球の研究室、宇宙船、上へ行ったり下へ行ったり大忙しだが共通しているのは最終的に「宇宙の根源に迫る」ことである。これはそのまま言葉通りの意味ではなく、ある時はM・Eの正体であったりある時は言語の正体であったりする。しかしそれらは一貫して根源的な物として扱われていて、それはすなわちメタファーである。

この『マインド・イーター』で水見稜は恐らく手を変え品を変え、ある一つのテーマを追ったのだろう。作品ごとにガラっと空気と表現手段が変わりながらも、求めるところはひとつなのだ。それらはばらばらに語られるのではなく、作品ごとに共鳴していてこれは村上春樹がいうところの『倍音』に近いものだと思う。

 極端なことを言ってしまえば、小説にとっての意味性というのは、そんなに重要なものじゃないんですよ。大事なのは、意味性と意味性がどのように呼応し合うかということなんです。音楽でいう「倍音」みたいなもので、その倍音は人間の耳には聞きとれないんだけど、何倍音までそこに込められているかということは、音楽の深さにとってものすごく大事なことなんです。

『代表質問』より

読み進めていく内にふっと作品ごとの呼応が見えてくる。それは当然同じテーマを扱っているのだから当然なのだが、なんだろ、毎度毎度テーマを照らし出し角度が違うために、そのテーマに対する深さ、みたいなものが加わってくる。僕はその感覚を今倍音といったり呼応といったりしている。

本書は時系列的なつながりはないし、キャラクタも別人だけれども、軸はある。最初と最後の短編は旅の始まりと終わりだ。一冊の本を読む間に時間的にも地理的にも、ずいぶんと長い旅をした気分になる。それは「復刊」という形を得た本書と、長い沈黙から言葉を発した水見稜氏にシンクロしているのだ。

『マインド・イーター』は旅をする話なのだ。しかも自分の内宇宙への旅だ。
 外の世界に出ていこうとする力と、中心に引き止めようとする力。そこに見え隠れする暗黒の塊。負の力の結晶。目的地でありながら障害でもあるもの。こうした設定の中で、ぼくは実際の旅では味わえない種類の興奮と、体験値を得た。
 そして僕は、旅に出たまま帰ってこれなくなってしまった。というのは自分を甘やかしすぎだろうか。帰る努力をしなかったのだ。
 今回、東京創元社から復刊のお話をいただいたのは、邂逅としか言いようがない。宇宙の果ての名もない天体の上で、自分を知る人とばったり出会ったようなものだ。うれしいのはもちろんだが、ずいぶん戸惑いもした。しかし、かくして僕は地球の空気をすうことができたのだ。

本書あとがきより

本書を読み終えてこの文章を読むと感慨もひとしおである。本書を読んで初めて知った僕だけど、帰ってきてくれてありがとう、と心の底から言いたい。

マインド・イーター[完全版] (創元SF文庫)

マインド・イーター[完全版] (創元SF文庫)