いやーこれは傑作。文庫三冊、1800ページもの大作ながらこの世界にあっという間に引き込まれて、舞台となっているインドのボンベイはそのまま僕の初夢として登場した。そもそも読むきっかけになったのは⇒書評:シャンタラム | 橘玲 公式サイトここで冒頭の印象的な引用文を読んだからだ。僕も同様に引用してみる。
私の人生の物語は長く、込み入っている。私はヘロインの中に理想を見失った革命家であり、犯罪の中に誠実さをなくした哲学者であり、重警備の刑務所の中で魂を消滅させた詩人だ。さらに、ふたつの看視塔にはさまれた正面の壁を乗り越え、刑務所を脱獄したことで、わが国の最重要の指名手配犯にもなった。そのあとは幸運を道づれに逃げ、インドへ飛んだ。インドではボンベイ・マフィアの一員になり、銃の密売人として、密輸業者として、偽造者とした働いた。その結果、三つの大陸で投獄され、殴られ、刺され、飢えに苦しめられることになる。戦争にも行き、敵の銃に向かって走り、そして、生き残った。まわりでは仲間が次々と死んでいったが、その大半が私などよりはるかにすぐれた男たちだった。何かの過ちで人生を粉々に砕かれ、他人の憎しみや愛や無関心が生み出す運命のいたずらに、その人生を吹き飛ばされたすぐれた男たちだった。私はそんな彼らを埋葬した。多すぎるほど埋葬した。埋葬しおえると、彼らの人生と物語が失われたことを嘆き、彼らの物語を私自身の人生に加えた。
以下に読書中に僕がとったメモをそのままはっつけておく。前後の順番を気にせず書いたので繰り返しになってしまうところとかもあるかもしれないけれど気がついたら修正しておく。とにかく面白かったのでオススメしたい。
喪失と再生の物語
これは死と再生の物語なんだろう。著者の来歴からしてこうだ。1952年、オーストラリアメルボルンに産まれ、無政府主義運動に身を投じつつ家庭の破綻をきにヘロイン中毒に。カネほしさに武装強盗を働き服役中に脱獄。インドのボンベイにわたり、スラム住民のために診療所を開設。その後ボンベイ・マフィアと行動とともにし、アフガン・ゲリラにも従軍。タレント事務所設立、ロックバンド結成、旅行代理店経営、薬物密輸の後に再逮捕され、残された刑期を務め上げる。
本書のストーリーのアウトラインはほぼ著者の略歴にそっている。自伝的小説といってもいいだろう。本書は、家庭が破綻しヘロイン中毒になり強盗を働き脱獄し、ボンベイに渡ったところから始まる。彼のもとには何も無い。友人もいなければ戻る国もない、居場所もない。常に身を隠さなければならず緊張し、当然夢や希望なんてあるはずもない。そんな何もない状況から、彼の再生の物語が始まるのだ。
恐らく著者もまったく同じではないにしろ同様の過程を経て再生したのだろう。だからこそ今、刑期を務めあげてこうして本を書いている。一度どん底をみている人間だからこそ、一つ一つの描写にリアリティが宿る。経験より深い真実があるというのは本書の言葉だが、著者は経験をして、さらにたくみに文章を書くことで真実を描写してみせる。
僕は思うのだが真実とはひとつではない。たとえば奴隷売買があったとして、それをただそのまま書くことも勿論真実だろう。が、そこには色々な書き方がある。読者にこの世を恨ませるように書くか、それとも少なくとも憎しみだけは持たせない様に書くか。真実を書くリアリティとは真実を「どのようにして書くか」で表されるものだと僕は本書を読んで思う。
それにしても──再生は生半可な物ではない。再生といっても、そこまでよりひどく落ち込むこともあれば肉体的に大きくきずつけられることもある。五部にわかれているが、中には戦争に参加しゲリラ達と銃を撃ちあいミサイルを撃ってくるヘリコプターから逃げ惑い洞窟の中で4週間もほぼ何も食べずに凍えたりもする。
それでも主人公のリンが再生するのは、インドという国の懐の深さと言えるだろう。本書ではインドの文化、風習、制度、風景、それからなんといってもそこで暮らす人々。多くの物がここでは描写されているがインド人にとって一番の資源は何よりも「人」なのだ。インドとは心の国なのだ、ということがわかる一節があるので少し引用する。
上巻226ページ(行き先とは違う場所を提示するバス)
ここでは「行き先とは違う場所を提示するバス」が出てくる。
リンがこれに対して「おかしいじゃないか」ともっともなことを言うとガイドのプラバカルは「それがビジネスなのです」と答える。自分の行きたい場所は本当は誰も行きたがらないような場所なので、人気のある場所を提示しておいて、来た人に対して「あそこにいかないか? いいところだよ」と勧誘をかけるのだ。
それでもおかしいじゃないかというリンに対してプラバカルは「これはビジネスだし、それに行き先をそのまま提示していたらそんなバスの運転手に誰も話しかけなくて寂しいじゃないか」、と言う。ああなるほど。僕は日本のバスの運転手に対して「誰とも会話できなくて寂しいな」なんて感じたこともなかったしそれが当然だと考えていたが、確かに寂しいのかもしれない。
日本では効率化の為に削ぎ落とされてきた物がインドではどんな形であれ生き残っている。この非効率さからくる人と人との交流こそがインドの人々の目が輝いている理由のひとつではあるのだろう。でもだからといって僕は日本で「行き先とは違う場所を提示するバス」を普及させろなんて言うつもりは毛頭ないが。
でもそうだな、少し日本が寂しいなとは思えてくる。
都市の物語
これは都市の物語なのだ。主人公としてリンがいる。けれど彼は同時に初めてインドに来るものとして驚き、楽しみ、絶望し、インドのガイド役も担っている。都市のガイドは決してインドの良い部分だけを見せたりはしない。飢え、死、奴隷、車で事故を起こしたものはすぐにリンチされ半殺しにされる野蛮さ、蔓延した麻薬にマフィア。でもそれでもインドはとても魅力的な都市として見える。そこには日本には失われてしまった「非効率さ」があるし、人々の目は輝きを失っていない。
奴隷売買に商品として出されるのは災害などで食べていくことができなくなった子供たちである。奴隷に出されるなんてあまりにも悲劇的なことだが、災害にあった地域では誰もが飢えて死ぬ。奴隷ハンターはそういった災害を渡り歩き親から「うちの子供を連れていってくれ」と懇願される。そこにいたら100%死ぬからだ。奴隷になれば少なくとも生きてはいける。過酷な仕事につかされ女の子に関してはその後100%娼婦だが少なくとも生きてはいけるわけだ。
「うちの子供を奴隷にしてくれ」と親が懇願する世界があるとはいやはやなんともなことだが、これをなんとかしようと思い憤るのは、ただの偽善に過ぎない。先進国である日本に生きている以上、好むと好まざるとに関わらず僕らはこの片棒をかついでいる。世界的な分業体制によって海外の人間を安く使って作られた便利な製品を買って僕達は日々の楽しみを得ているのだから。
それではこれを何とかするために行動すれば偽善ではなくなるのか? そんなことはない。たとえ一つの奴隷市場を潰してもまた別の場所で奴隷市場が立ち上がるだけだ。もし本当に崇高な理想を持ちこの世界の歪みを治そうとするのならばもっともっともっと根源的なシステムから変えなければならないが、はたして自分以外の遠い国で餓死していく人間たちの為にそれだけの行動を起こせるだけの人間がいるだろうか? いたとして、はたしてどこまで変えられるのだろう?
仮に変えられないとしても、だからといって僕達は何もやらなくていいのだろうか? とか色々考えることになる。でもこれは難しくて、たとえば「世界から貧困をなくそう」っていう理想は立派だけどこれを本気でやろうとすると多分気が狂う。だって今のところ無理だから。だから僕達は自分たちの気が狂わない範囲で、負担にならない範囲でできることをやるべきだろう。もちろんやりたくなければやらなくていいわけだ。
話はまったく変わるけれど、主人公のリンがこのボンベイで多くの驚きの経験をするが、これは読者にとってもまったく同様に驚きの経験である。いわばインドの文化を隅から隅まで経験させてくれているようなものだ。インドに短期的に観光客向けの滞在をする人は多くいるが、何年も生活を共にし一体化し文化を吸収しようとする人はあまり多くないだろう。
本書で伝わってくるのはそういう「異文化の人間がその土地に受け入れられる」過程であり自分が旅をしているように面白い。たしか帯には本書でバックパッカーが増えただか喜んだだかそんなことが書いてあったけれどさもありなんというところ。僕も地球は広いなあ、こんなに文化も気候も違う所が、いっぱいあって一回しかない人生をずっと日本で過ごして終えるのも悲しい事だなあと思ったりもした。
ああ、それにしてもここに書かれているインドはとても素晴らしい。行きたいという強烈な気持ちとぜったいに行きたくないという気持ちが同時に沸き起こってくる奇妙な小説だけど、それがまた素晴らしいんだ。
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