今日本はリーダー不在の国と言われており実際そうなのだろう。原発から民主党まで問題は様々だが未来へのビジョンを示してリスクをとって決断を下していく主体が欠如している。それがこの国の大きな問題でもあると誰もが言う。
僕はリーダーについて考えなければいけなくなったのでリーダーについて考えようと思った。まずとりあえず他の人がリーダーについてどう考えているのか読んでみようと思っていくつか本をよんでみたけれどまああんまり面白いもんでもないね。
(というか僕はいつも考えようと思うことの前に本を読むのだけど結局お気に入りの説をみつけて満足してしまうので全然自分で考えてない。リーダーについても同様)
基本的に今上で書いたようなリーダー不在の日本を嘆いて、その後リーダーとはといったリーダー論に発展していく。ただねえ、「リーダーとは」とか、正直そんなのどうだってよくないかな。だってリーダーとしてどんな能力が必要かなんて誰だって言われるまでもなくわかってるじゃないですか。
リーダーにもまあ色々いるんだろうけど、とりあえず平時型のリーダー(決められた業務を、規定にしたがってスムーズに進行する)と危機対処型のリーダー(先がみえない状況で決断を下していく)のざっくりわけて二タイプがいて、日本ではまあ前者はあんまりいないし後者はもっといないよねっていう話。
でリーダーに必要なのはビジョンだとか先が見えない状況で決断するんだとか色々言われる。
同時に日本にはリーダーになるための教育が欠如していると。そんなのは誰だって知っていることだ。誰もが知っている状態をあらためて指摘して教育をしていかなければいけないといったってしょうがない。日本では事実教育が行われておらず、発生していない。また歴史的にみても日本にはそういったリーダーシップをとってきた人間はほとんどいない(例外はみんな物語に祀り上げられている)。
つまりそこには何か原因があるはずと推測することが出来る。もし本格的にリーダー論を行なって、日本にリーダーを大量発生させようとするんだったら「なぜこの国ではリーダーが育たないのか」といった根っこのところを先に検討しなければならないでしょう。構造的な問題でリーダーが生まれないのにリーダーを作れといったってしょうがない。
そしてなぜこの国ではリーダーが育たないのかといった根源的な問いに対して考えていたんですけど、内田樹先生の『日本辺境論』を思い出した。この本はまさにそういった日本人の「リーダーが産まれない構造」について書いている本だと言えます。「正しい」とか「間違っている」とかは関係がなく、これは面白い。
めちゃくちゃ売れているみたいだから別に説明するまでもないのかもしれないけど、長々と説明するのも面倒くさいので先に結論だけ書いてしまいますと、日本文化というのは原型がなく、「日本文化とは何か」という問いの中にしか存在しないというのが本書での結論です。
日本文化論が今も毎月たくさん出ますが、なぜそれほどまでに日本人が日本文化論を好きかというと、同じようことでも繰り返し「日本人とはなんなのだろうか?」と問い続けることそのものが「日本文化」だからです。そこのところを細かく検討していくと「日本人は辺境人である」という推測が出てくる。
日本の文化で最も強調されるのは「和の精神」です。日本人は大抵異なる主義主張がぶつかったりするような場合まあまあまあとかいいながらなし崩し的に白黒をきっぱりと決めないような、渾然一体とした結論を出したがるところがある。どんなに尖った主張でも「どちらにも立場があるのだから間をとって……」となってしまう。
そして「だから日本はダメなんだ」といって他国の文化を吸収しようとする。この「だから日本がダメなんだ」といって「他国に学ぼうとする姿勢」が今回の話の核心になります。要するにこここそが日本が辺境人であるゆえであるところです。日本人が日本人たる所以は、常に外部からの刺激に対して何でも「だから日本はダメなんだ」といって受け入れて自己変革していくところにあります。
クリスマスやなんかをみても明らかですが、日本ほど他国の文化がごちゃごちゃになっている国はそうそうないでしょう。「我々は偉大な日本人であるから他国から学ぶ必要はない」という文化ではなく常に辺境人として「現在の状況を変動させるものはすべて外からやってくるものであり、私たちは常に受身側」として存在してところにこそ日本人性が現れている。大国の付近をうろちょろしている状況に翻弄されるままの小国としての立場をずっと維持してきたわけです。
先が見えない時代でのリーダーとして求められる力は、「こんな状況は初めてだ。どうやればいいのか絶対の正しさはないが、私はこうやるべきだと思う」と大勢を納得させそこに向けて舵をとっていける人間です。ただ歴史的世界的にみて日本という国が役割として担ってきたのは、今少し説明したように、他者からの働きかけがあって、他者(まあ大国、というか中国か)初めて自分たちも変化するという立場です。
もちろん歴史的にみて常に「大国を参照」してきたわけではないと思いますけどね。たとえば中国を基本的に参考にしていた日本ですが宋の時代からは歴史が分かれ始めます。ただ大局としてみた時に、頷くことの多い内容だと思います。
つまり日本という国では歴史的に「危機対処型のリーダーが生まれにくい」国と言えるでしょう。そんな国で「外国でやっているようなリーダー教育をやれ」とかいってはたして意味があるのか? そもそも「外国でやっているから日本でもやれ」という論の建て方自体がまずをもって日本の辺境性を表していると言えるでしょう。「外国がやっているからやれ」と言っている時点ですでにリーダー的能力から離れていっています。
変化を促すときには常にこの「外国はやっている」とか「日本は遅れている」という言い方がされます。しかし考えてみれば日本という国は長い歴史を通してこれでやってきたわけです。もちろん今以上の危機もあったでしょう(知らないけど)。でも生き延びてきた。そこにはやはり生き延びる為に利点があったはずです。日本辺境論ではそのあたりのことも詳しく語られていますがこんなところでやめておきます。
要するに言いたかったのは、リーダー論を語る本はだいたい「外国はリーダー教育をやっている。日本はリーダー教育をやっていない。だから日本もリーダー教育をやらなければならない」といった画一的な論理を語っていて大変つまらないわけです。まあでもつまらなくてもしょうがないんです。僕達は他国を基準とした相対的な語り方でしか日本を語ることができないんだから。
ということでもちろん日本はこうやって繰り返し他国を参照することで自分たちを変化させ続けてきたわけですが、でも変化する、あるいは出来る部分というのは「日本の変化のシステムに沿った」部分でしかないわけですよね。変わり続けるのが日本だとしても、その変わり続けるシステムを損なう変化を日本は構造的に受け入れることができないからです。
僕達はそろそろそういうシステムから抜け出すべきなのか? 『日本辺境論』で提案されているのは「もういいじゃないか辺境で。このままとことん辺境で行こうぜ」ということです。今までこれでうまくいってきたんだから、割と優れたシステムではあるのでしょう。これを前提でリーダーを語るとしたらもう少し具体的な条件設定が必要だなあ。