ひでえタイトルだなあと思いつつ買った内田樹先生の映画評論集。長くても3〜4ページぐらいでひとつの映画について語っていてさくさくとたくさんの映画評論が読める。僕はほとんど映画を見ない人なので観たことがある作品は2、3しかなかったように思うけれど、まったく関係がないぐらい楽しく読めた。語られている作品の年代は幅広く何十年も前の作品がいくつもある。
内田先生は全時代の映画をレビューすることについて『あらゆる時代のあらゆる作品はつねに現時点におけるレビューの対象となりうる。』といっています。ただ当然これには「あらゆる時代のあらゆる作品が手に入れられる状況である」という前提が必要でしょう。その点映画というのはむかしの作品でも手軽に手に入れることができる……? のか? 映画を借りることなんてないからぜんぜんわからないぞ?
それにしても僕はいつからか内田先生の「語る内容」よりも「語り方」に興味を持って文章を読むようになってきたのですが、本書は短い評論が続くので「どのようにして語るのか」を観察するのに良い一冊でした。内田先生の定型的な語り口があるから、観たことがない映画の評論でも楽しく読めるんです。しかもそれが「映画をダシにして自説を語っている」だけではないところが良いな。
まず特殊なのは内田先生の映画評論はあらすじというか物語に触れる部分をあまり語らない。監督の説明もしない。じゃあ何をするのか?
パターンはいくつかあるけれどたいていは映画の物語構造を抜き出して、それを自らの知見に結び付けて教訓を見つけ出し解釈する。さらに一見不条理にみえる映画の成り立ちにはすべて解釈すべき論理があるとして、その論理を暴き出す(もしくはありもしない論理をでっちあげる)のが内田流。書くと簡単だが実際やっていることはかなり凄い。
本人の言葉を借りると「映画とそれ以外のものとの関連性」を書いているという。または『どのような無内容な映画からも「教訓」を引き出し、あらゆる不条理を条理のうちに回収することが私の知的「宿痾」である』。ハリウッド作品を論じればアメリカ論に絡める、特殊なコミュニケーションが出てきたらコミュニケーション論に絡める、といったように内田先生の評論は映画以外に開かれている。
しかしそれが「単なるアメリカ論」とか「単なるコミュニケーション論」で終わらず、むしろ映画の魅力を引き立てるのはなぜなのだろう。そこはやはり論が「この作品では○○がうまく語られていて、それが魅力なのだ」と必ず本筋の映画の魅力に回帰するからだ。むかしの映画を熱っぽく賛歌する文章を読んで、内田先生は本当に映画が好きなんだなあ、ということが伝わってくる。
- 作者: 内田 樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/10/19
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