基本読書

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〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀

『うほほいシネクラブ』を読んでから映画熱が高まって町山智浩さんの著作『映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで 』と『トラウマ映画館』とこの『〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』を読んできた。とりあえず町山さんの単著はこれで一段落としようかな。

それにしても映画の見方がわかる本というのは年代ごとに映画を切り取っていく本だったのだと本作を読んでいてようやく気がついた。一作目の『映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで 』では主に70年代の作品をとりあげれそれらを「ニューシネマ」「カウンターカルチャー」の映画群たちであるとしてまとめていました。

60年代初期のハリウッドには若者を満足させるような映画は一つもなかったと言います。家族そろって楽しめるような超大作、西部劇、セックスもドラッグも黒人もなく血は流れずいいこちゃんのような映画ばかり。ベトナム戦争では多くのアメリカ人とベトナム人が死に黒人はデモをしマリファナが蔓延しているような状況で、映画が表現するものはぬるすぎたのです。

そこで出てきたのが既存の映画をぶち壊す、ハッピーエンドを拒否し暴力を描き、人間の本質を問いかけるような作品たち。犯罪は本当に悪なのか? と問いかけた『俺たちに明日はない』や「人間の本質は悪なのではないか」と問いかけた『2001年宇宙の旅』などが出てきます。これらが行ったのは既存のハリウッド作品の解体であり再構築だったのでしょう。

対して本作80年代カルトムービー編が切り取るのはそのまんま、80年代に出てきた「新興宗教」的な熱狂を生んだ映画たち。ここで紹介されている映画たちに対して軸があるとすればそれはポストモダン時代を反映した映画といったところでしょうか。ポストモダンとはかんたんに僕の理解で説明すると、信じるべき「正義」が「人それぞれでしかない」と気がついた時代のことです。

たとえば少し前を振り返れば「科学技術が発展して、合理的で機能的に物を考えて効率的に物事を推し進めていけばみんなが幸福になれるユートピア的社会が実現する」といった価値観が主流としてあったようですがもうそんなことを信じている人はあまりいません。誰もが同じような思考、夢をもつような時代が終わって、自分にとっての「善」は他の誰かからみた「悪」であるという考え方が主流になってきました。

本書で紹介される8つの映画

第1章 デヴィッド・クローネンバーグビデオドローム』―メディア・セックス革命
第2章 ジョー・ダンテグレムリン』―テレビの国からきたアナーキスト
第3章 ジェームズ・キャメロンターミネーター』―猛き聖母に捧ぐ
第4章 テリー・ギリアム未来世紀ブラジル』―1984年のドン・キホーテ
第5章 オリヴァー・ストーンプラトーン』―Lovely Fuckin’War!
第6章 デヴィッド・リンチブルーベルベット』―スモール・タウンの乱歩
第7章 ポール・ヴァーホーヴェンロボコップ』―パッション・オブ・アンチ・クライスト
第8章 リドリー・スコットブレードランナー』―ポストモダン荒野の決闘

はどれもそういった考え方が下敷きにあるように読める。でも本書でそれ以上に面白いのは、どの作品の監督もイカれているところだ。

町山さんの映画評論は一貫していて、常に「映画の背景」まで含めた総合的な話を展開する。監督の生い立ち、過去作、製作された国の政治状況、プロデューサーカメラマン俳優の作品への介入。さらには「書かれるはずだったが書かれなかったシナリオ」といった「現実の作品とは違う、言葉の上にしか存在しない映画」まで含めて「映画」として解説する。

そこで語られる監督についての話がここまでの3作の中でいちばん面白かった。どいつもこいつもキチガイのような人間ばかりで、ただ圧倒して個性的。

映画に関しては決して妥協せずロボコップのデザインがあがってくると「貴様のデザインはクソだ!」といってツバを飛ばすヴァーホーヴェンの話や、ベトナム戦争に従軍してベトナムで体験した地獄のような出来事を忠実に映画にし、「俺の映画を真似て殺人事件が起こったということは、俺の映画がパワフルだって証拠だ」と胸を張るオリヴァー・ストーンの話、どれも刺激的だ。

しかしなぜこれ程刺激的な人達が出てきたんだろう。町山さんによると80年代の映画作品はプロデューサーが映画政策の主導権を監督から取り戻して難しくなりすぎた物語を家族向の明るい物に引き戻したという。だから本書で紹介されているような作品を創った監督たちは80年代からしてもアウトサイダーだったのだ。そんな状況でも出てこれてしまうほど「異常」で才能があったからこそ、映画史に残るような作品を撮ることができたのかもしれない。

70,80年代はちゃんと「革命できる」幸福な時代だったのだ。今ではもはや革命の革命の革命ぐらいやりつくされてしまって本当に新しいものなんて生まれようがない、あまりにも多くの物が作られすぎてしまったと最後の「ブレードランナー」で書かれるが、なるほどたしかに今はそういう絶望の時代なのかもしれない。