基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

いま集合的無意識を、

神林長平は僕にとってあらゆる意味で特別な作家である。最も好きな作家であり、大なり小なり人生に影響を受けてきた。大学生の時雑誌をつくろうとしており、その際に教授へのインタビューなどを行なっていたことがあるが、その時の質問に「人生に影響を与えた本はありますか」という質問もあった。僕はこのようなことを言われたことがある。『本程度で人生が変わるはずがない』僕はこの答には即座に反論することができる。

ごく個人的な内容から書き始めたのは正直な気持ちで書こうと思ったからかもしれない。本書『いま集合的無意識を、』は短編集である。本書が初出の短編はないが、どれも無意識をテーマに扱っているという点で統一感がある(かくも無数の悲鳴はちょっと違うか)。その中でも表題作となっている『いま集合的無意識を、』は圧巻だ。

これを読んでいて、なぜ僕にとって神林長平は特別な作家なのだろう。そしてなぜ他の多くの人にとっても特別な作家となっているのだろうと考えていました。まあもちろん神林長平に限らず、どんな作家でも誰かにとって特別な作家なのでしょうけれど。でも神林長平は僕の好きなクリエイター達にとっても特別な作家となっていることが多いと思う。

『いま集合的無意識を、』は神林長平自身と解釈してもあまり問題がないような人物が語り手をつとめている。それは以下のような記述からわかる。『ぼくは三十年以上SFを書いてきた作家だ。年代的には、<最後の手書き作家>世代になる。*1

この作家が突如Twitterのような<さえずり>なるネットワーク上に表出した人類の無意識を表現したサービスから、「ぼくは伊藤計劃だ」と名乗る謎の存在が現れ、彼との対話が始まる。この対話では伊藤計劃の遺作となった『ハーモニー』についてであったり、作家のフィクション、意識論であったり、そしてこれから先のSFについての話などが繰り広げられる。

それらはほとんど神林長平の独白による「宣言」にもとれる。それなのにあくまでも「フィクション」としての形をとっている理由もこの短編からわかる。

 伊藤くんへの個人的なリアルなメッセージを不特定多数に向けて発信するつもりはぼくにはない。ぼくはいつだってそうなのだ、見も知らない相手に自分の生の声を発信することには興味がない。だれに読まれるのかわからないままに語るなんてことはぼくにはでいない。誤読されたら訂正のしようがないではないか、「それは違う、ぼくが言っているのはそういう意味ではないのだ」と言えない、相手からの応答が得られない。そんな一方向性の言い方で自分の本音を語るつもりはぼくにはない。
 しかしフィクションなら、小説という<虚構>にすれば、それができる。意識的に嘘を語るというのではない。どのように読まれようがかまわないという覚悟で書かれるのがフィクションであり、小説というものだと、ぼくが言いたいのはそういうことだ。

どのように読まれようが構わないという覚悟でもってこの短編を書いているのだろう。ごくごく個人的な私的メッセージであり、それと同時に今後に対する宣戦布告であるともとれるこの短編を。実際これは神林長平自身が自分自身に書いたものだ。だれにどう読まれようがいいのだろう。理解していればいいのは自分だけだ。

でもそれは僕のようなただ読んでいるだけの人間にも強い力を与える。神林作品を読むたびに僕は何が自分をこんなに惹きつけるのかと考えるけれどその度に違う答えを見つけるが、今回もまた新たに答えを見つけた。単純なもので、神林長平は無限に続く闘いをしており、その揺るがない姿勢は僕を勇気づける。

そして何より彼が見据えている世界は僕なんかより遥か先だ。その先が見たいのかもしれない。言葉にしがたいものを言葉で表現するという圧倒的難易度で終わりがない闘いと同時に、誰もが見ていない程の未来を見据えて言葉を使っている。なぜなら、それこそが言葉の力だからだ。自分が死んで、関係者が全て死に絶えても誰かに届くことが言葉の力だ。

『いま集合的無意識を、』の中で伊藤計劃と名乗る何かに向かって作家は『ハーモニー』『虐殺器官』への批評を展開する。『ハーモニー』のラストでは「意識」をテーマにした問いへの一つの答が示されて終わる。伊藤計劃も自身の書いたものに三十年間意識とはなにかと文字にし続けてきた神林長平が立ちはだかってくるとは、当時は思わなかっただろう。

だが当然神林長平はSF作家である。『SF作家の責務は1つだけだ。新しいSFを創ること、新作を書くこと、ただそれだけだ。*2『ハーモニー』に対して行われる批評、分析は、だから、新しいSFを創るために行われる。『いや、彼が考えていたのは、もっと先だ。知能と意識の次には、なにが出てくるのだろう、ということだ。*3

伊藤計劃はこれを考えることができずに終わってしまった。私見では、屍者の帝国にはその萌芽があったと思う。死者がよみがえる科学技術が発展した世界で、死んでからソフトをインストールして強制的に動かす。グレッグ・イーガンなどに代表される基本的な未来は「人は死をなかったことにする」わけだけど、伊藤計劃が書いたのは人間が人間のまま何か別のものになるのではなく、人間がいったん死んでから別のものになる。

そこで書こうとしたのは知能と意識の次だったのではないかと僕は考えている。だって人間が死んだら、意識も知能もなくなる。じゃあ、その先は? 伊藤計劃が死んでその道は途絶えたのか? 否、である。

「きみが伊藤計劃だというのならば、ではきみに言おうじゃないか。大丈夫だ、われわれが、ぼくが、書いてやる。少なくとも僕には、たとえば今回の震災で心理的打撃を受けたりしている若い作家たちに向けて、現実=リアルに屈するな、フィクション=虚構の力を信じろ、きみたちがやっていることはヒトが生きていく上でパン(とワイン)と同じように必要不可欠なものだと、叱咤激励する力はまだある。ヒトは、フィクションなしでは生きていけないんだ」

大丈夫だ、ぼくが、書いてやる。こんなに力強い言葉がもうすぐ還暦を迎えようかという作家から出てくるとは、そんなエネルギーがどこから出てくるんだ。この人、膚の下を書き終えた後は余生とか講演会でいってたんだぜ。全然余生じゃないよ。本気じゃないか。でも、その本気が僕を惹きつけてきたんだ。

『いま集合的無意識を、』というタイトルは不思議な点がある。ちなみにこれは不思議なポイントという意味と、⇐これをかけているんだけど(自分で解説すると死ぬほど恥ずかしい)とにかく不思議な点がある。、があるということは何かの文章が後に続くのだろう。でも、最後まで読むと自然と意味は絞られる。

その後は自分で考えるほかないのだ。「いま集合的無意識を、超えていく」と僕はしよう。大丈夫だ、どんな答えを誰が書こうが、道半ばで倒れてしまおうが、我々には神林長平がいる。『「もう大丈夫だ」とぼくは打ち込む。「心配ない」*4

いま集合的無意識を、 (ハヤカワ文庫JA)

いま集合的無意識を、 (ハヤカワ文庫JA)

*1:p193

*2:p207

*3:p216

*4:p220