基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

コミュニケーションは、要らない

押井守氏の新刊新書。コミュニケーション能力が盛んに叫ばれる現代でなかなか挑戦的なタイトルだ。

しかし別にコミュニケーションが本当に要らない、という話ではない。じゃあどういう意味なのか……どういう話なのかいまいちわかりづらい本だ。行き当たりばったりに思いついていることを書いているだけにも見える。アニメのことを語ったかと思えば原発を語り、戦争を語ったかと思えば大江健三郎山田正紀だったら虚構の世界において山田正紀の方がすごい仕事をしたという。

ただ一貫して強い問題意識が伝わってくる。それが震災以降に問題として大噴出した(しかしそれまでもずっと続いていた)コミュニケーション不全の問題だ。押井守氏はコミュニケーションについて論じる前に、コミュニケーションの二つの側面に注目してある程度定義を行なっている。

ひとつは「現状を維持するためのコミュニケーション」で、もうひとつは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」だ。

前者はご近所づきあいなどに代表される、言ってみれば関係を維持するための、波風立てずに自分の立ち位置を確保し続けるための現状維持コミュニケーションである。一方後者は異質な文化、考え方の異なる相手と意見のすり合わせ、交換を行いなんらかを持ち帰るための物だ。現状維持を目的とするものではない、とすることもできるだろう。

押井守氏の問題意識とは日本のコミュニケーションが前者の現状維持コミュニケーションに偏りすぎており、後者を使わねばならない場所でも「まあまあ」とかいって現状維持に徹してしまうことだ。後者を使わねばならない場面とは、国の視点でいえば外交がそうだし、企業の視点でいえば会議、個人間の交渉もここにあたる。異質なものとつきあうためのものだけがコミュニケーションであると言っているのではなく、バランスが傾きすぎているのが問題だと言っているのである。

原発の問題もアニメの現場を話題にするときも、結局はこの「コミュニケーション不全」を問題としている。たとえばネットの言質で、たとえば大半のツイッターやたわいもない書評ブログなどは、気持ちを吐き出しているだけで誰かに何かを伝えることを目的としたものではない。

ここは結構重要なところだと思うが、コミュニケーションとは結局のところ「相手に伝える」ことと「相手の意見を聞く」ことの二つが本質だ。伝えるためにはそもそも、伝えるたいと思う物、考え方がなければならない。それは現状維持を目指し、上っ面だけの感情論、情緒論で被災地にいったり、なんの本質的論理も持たずに「原発反対!」と叫ぶ現状に欠けているものなのだ。

なんか自分でも無意識のうちに超硬い書き方をしてしまってびっくりしたのでここからはかなりフランくに感想を書く。本書は、話題はばらけて細切れだし、やけに個人的な話が多い。

まあでも僕はにわかではあるものの押井守ファンでもあるし、テーマとなっているコミュニケーション上の問題とは別に、そういう話もかなり楽しめた。むしろそういう話のほうが面白い!たとえばうる星やつらの話も度々出てくるのだが、その流れで高橋留美子めぞん一刻はドラマではないというのだ。

なぜならめぞん一刻はは主人公の男が結婚してくれといってしまえばそこで終わってしまう話で、「優柔不断」だからこそ物語が続いたのだ……というか、何年も続けるために男を優柔普段にした。そして押井守氏に言わせればそういった根拠をもたないがゆえに起こるドラマはドラマではないのだ。

今のアニメやマンガや特にライトノベルなんてそんなのばっかりだよね。優柔不断なキャラクタなんて物語を長引かせるためだけに設定された精神的奇形児でほとんど精神病の域に達しているのにあまり状況は改善されない。だから押井守のこういう言い方にとても共感する。

※20121025日追記。
半年ぶりに少しブクマが増えて人が訪れているが、ここから僕の考えも変わってきているので変わった点について少しだけ釈明しておきたい。ライトノベルや漫画のここでいうところの「ドラマではない」ものばかりだということを否定的に書いているけれど、考えを改めた。それは確かにドラマではないのかもしれないが、しかし物語ではあるのだ。そして読んでいて楽しいと思う気持ちも本当だし、そこにはその為の技術がある。否定的だけに捉えるものでもないということが今の考え方。物語としての性質が違うというだけの話だ。追記終わり。

ようするに未熟なのだ。未熟であるがゆえに生起するドラマはドラマとは呼ばない。ドラマとは「価値観の相克」のことだ。俺はあんたが好きだ。あんたも俺が好きだ。でも、なぜか二人は一緒になれない。これならドラマたりえる。だから、好きだということを言わないで永遠に続くドラマはドラマとはいえないのだ

本書の題名になっている『コミュニケーションは、要らない』はだから超攻撃的なタイトルなのだ。挑発的ともちょっと違う。価値観なき現状を維持して終りなき日常にひたすら回帰することを望むだけならば、コミュニケーションなんか要らないんだよ!!!! って感じ。うひい。

でも、何かを成し遂げたいんだったら、コミュニケーションをとるしかないんだ。一人で出来ないことをやりたかったら。アニメーション監督なんて絶対に一人じゃ出来ない。そもそも一人だったら監督ですらない。プロデューサーに意志を伝えて、スポンサーに伝えて、現場の作業をする人間にも自分がどんなものを創っていきたいのかを伝えなきゃいけないんだ。

だからアニメーション監督なんて職業は常に「異質なものと付き合うコミュニケーション」をできる限り高いレベルでこなしていかなくちゃいけない、コミュニケーションのプロと言える。しかし方法論は語られず、ただ「何よりまず大切なのは何かを成したいという意志だ」とか言ってしまうので本書はまとまらない。

しかしそれが最も本質的なものだ。何かを成したいという思いがないんだったら、変えたいと思わないんだったらコミュニケーションなんてとる必要はないんだから。

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)