基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

街場の文体論

内田樹先生の現時点での最新刊。内田樹論の文体論を超えて、コミュニケーション論の総括とも言える内容で、とても素晴らしかった。とても素晴らしく、だからこそ誠意を込めてこの本について説明する文章を書きたかったので、読み終えてすぐに文章を書くことが出来なかった。本書は内田先生が自身が所属していた大学を定年で退職する、最後の授業の書籍化になる。本書の語り口には、「最後だからこそ、どうしても伝えたいことがあるんだ。だから、読んでくれ」という強烈なメタ・メッセージがある。

そして、それこそが、本書の主題に対する答えなのだ。本書の中心的な主題はシンプルに書けば「言葉」だが、もう少し具体的に書けば「言葉が届くとはどういうことか」や「クリエイティブな言葉とはどういうもののことか」といった、言語について、コミュニケーションについての本質的な問いかけがなされる。そして一足飛びに答をいってしまえば、「書く」ことの本質は、「読み手に対する敬意」に帰着するという結論に達する。『それは実践的に言うと、「情理を尽くして語る」ということになります。*1

本書は「情理を尽くして語る」ということは何なのか、といったことを中心にして、少女マンガの話をしたり、電子書籍の話をしたり少子化について話をしたりする。いっけん関わりのないような内容だが、その実「情理を尽くして語る」ことがなぜ必要なのかという結論へと繋がっている。ここから書くことはほとんどは本書の内容に沿ったものだと思うけれど、自分が読んでいて考えたことを出来る限り自分の言葉で書こう。「情理を尽くして語る」とはどういうことか。

この一文は、それだけだとひどく曖昧なものに思える。事実人によってどうとでも解釈できる内容だが、その実際的なところは「本気で文章を書く」ということなのだ。これもまた非常に曖昧な話だ。もう少し説明する。文章というのはそれ自体制限がある。バベルの塔を持ち出すまでもなく、自分が考えていることを100%相手に伝えることなどできない。それどころか、自分が考えていることなんてものがそもそも存在していない。

どういうことかというと、「これこれこういう事を相手に伝えよう」という100%精密な草稿などは書き始める前には存在していないのだ。むしろ書いているうちに最初に書きたかったおぼろげな内容が形になっていき、少し前に書いた内容が次に書く内容はこうだよと促していく。テクストの生成の形とはそのようなものだとバルトは言った。これもまた本書では重要なことのひとつである。

脇道にそれてしまった。いちおう最初に想定していたあやふやな線に話を戻すと、2回目だが、つまるところ自分が考えていることを100%相手に伝えることなどできないのである。そもそも書き始める前には形としては5%ぐらいしか存在していないのだから。だから文章を書くというシンプルな形には、そもそも完璧な形なんてあり得ないわけなのだと僕は思う。書いてみれば当たり前の話だなと今、思ったが。

村上春樹のエッセイで、僕がとても気に入っているものがある。元々ニューヨーク・タイムズの記事に載っていたもので、ブログで訳してくれている方がいるのでそこから引用しよう(出来る限り自分の言葉で書こうといっておきながらいきなりの引用ではあるが、これもまた予測できないのだから致し方ない。) ここから引用させていただきました。⇒村上春樹のエッセイ - 百水日記

 僕のお気に入りのジャズ・ピアニストの一人に、セロニアス・モンクがいる。以前、彼にどうやったらそんなに素晴らしい音をピアノから叩き出すことができるのかと尋ねた人がいた。するとモンクは鍵盤を指さしてこう言ったのだ。「新しい音なんてものはどこにもない。鍵盤を見ればわかるけど、音はもうぜんぶ決まってるんだ。でも音に十分な意味を与えてやると、その響きが違ってくる。ほんとうに出したかった音になるのさ!」

 文章を書くとき、僕はよくこの言葉を思い出す。そして自分に言い聞かせている。「その通り。新しい言葉があるわけではない。僕たちの仕事は、ありきたりな、なんでもない言葉に新しい意味と特別な響きを与えることなのだ」この考えは僕を勇気づける。わたしたちの前にはまだ知られざる領域がいっぱいに広がり、肥沃で広大な土地が、誰かに耕されるのを待っているさまが目に浮かぶのである。

新しい言葉があるわけではない。組み合わせは無限に近くあり、リズムや美しさ、メロディのある文章は本当に素晴らしいものになる。しかし完璧のようだと思えるものはあっても、「これこそが究極でありこれを超えるものは存在しない」というものを作ることは出来ない。そしてだからこそ、小論文のテストや、大学のレポートなど、あるいはひょっとしたら小説家でも「まあこれぐらいなら、恥ずかしくない、そこそこの評価を受けるだろう」と思って出してしまい、それが常習化してしまうと、大いなる可能性を失うのだ。

あなたは有名な蚤の限界の話をしっていると思う。虫カゴだかなんだかしらないが、とにかく屋根がついている箱に蚤を入れる。蚤はご自慢のジャンプ力を発揮してぴょんぴょんと飛ぶが、屋根があるのでぶつかって下に叩き落される。それを何度も繰り返していると、蚤は屋根の高さまでしか飛ぶことができなくなる。「眼の前に知られざる領域が、肥沃で広大な土地が、誰かに耕されるのを待っている」にも関わらず、文章を(もちろんこれは文章に限った話ではないが)「まあこれぐらいでいいだろう」という気持ちで書く人間はそれを知らない。

それこそが「情理を尽くして語る」ということの、僕にとっての具体的な意味になる。この『街場の文体論』には、「クリエイティブな言葉とはどういうことか」についても僕が書いたようなこととはまた違った幾通りもの説明が与えられているし、それ以外にも読むべき話がいくつもある(特にメタ・メッセージの話などは、オススメ)。たかだか一ブログの一記事だけど、がんばってかきました。自分が持っているものの、ボテンシャルを最大限発揮しようと頑張る理由は、それが役に立つというよりかは「とても楽しいからなのだ」な、と最後に思った。

街場の文体論

街場の文体論

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