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光圀伝:史書は人に何を与えてくれるのか?

すごすぎる。元々とんでもない作家だったけれども、もう底が知れない。冗談じゃなく読んでいて手が震えて本を落としそうになったよ……。小説を読んでいてよかったと思うのはこういう時だ。たった一人の才能が創り上げる、奇跡の塊のような作品に触れるとき。不純物が存在せず、ただただ「なんなんだこれは」という感覚に圧倒される。

「才能」とか「天才」という言葉は語の定義を別にして、実際的のどのような状況で用いられるかといえば「誰にもそれを言葉で説明できないとき」なのだ。そういう意味で言って、これはまさに天才の所業であり才能の物質化だった。文句なしに傑作なので、こんな文章なんか読んでないで読むべきである。

『光圀伝』は、『天地明察』で一躍有名になった……が、SFファン及びライトノベル及びアニメファンにはそれ以前から有名だった冲方丁の新作時代小説である。そのタイトルから容易に推測できるように、巷では水戸黄門で名前が通っている水戸光圀の物語である。正直言って水戸黄門なんて古臭い時代劇としか認識しておらず、各地を回って悪を成敗するよくわからん正義のじーさんとしてしか知らなかったが、本書で描かれる水戸光圀はそのような水戸黄門像とはまるっきり異なる性格を持っている。

本書で書かれる水戸黄門は、必要とあらば人を殺し、若い頃はただの度胸試しでそこら辺の浪人を切り殺し、プライドだけは高く学問で相手に喧嘩をふっかける恥知らずだ。しかし妻を愛し友を愛し、町のろくでなしを愛した。遊郭やスリを相手に教えを請い、当時から避けられていた異人にあえて接近し、これまた教えを請い、戦乱が終わり太平の世を作る為に、天地すべてを師匠として自分の藩を最大級に発展させた一人の偉人だった。

その生き方はまさに「苛烈」とでも言うべきである。数多くの事業を起こし、数多くの文化に携わり、数多くの発展を促してきた光圀の人生には常に親しい人の死が間近にある。親しい人の死に立ち会う悲哀と共に光圀が飲み込むのは自分が行ってきた事業の喜びだった。その気持ちが冒頭の光圀の文章に現れている。『虎が泣いていた。悲しくて泣いているのではなかった。』悲哀を飲み込み、苦楽をもって生をまっとうすることこそが光圀の「大儀」であった。

話を少し『天地明察』に寄せよう。なぜならこの作品もまた、水戸光圀が生きたのと同時代を書いているからだ。『天地明察』では、挫折と夢をテーマに渋川春海という男が成した「改暦」を書いた。ひたすらシンプルに改暦という夢と、その事業がもたらす変革、困難、そしてその時代性を書いていた『天地明察』はすっきりとした気持ちのいい作品だった。とてもよくまとまっていて、面白かった。傑作だった。しかし──あまりにシンプルすぎる、という見方もあるだろう。

冲方丁の作品には、マルドゥック・スクランブルシュピーゲルシリーズのような底を覗くような、清濁併せ飲んでかつ底が見えないシリーズまであるのに、なんだか綺麗すぎると僕は少し物足りない思いをしたものだ。そこで出てきたのがこの『光圀伝』だった。ひょっとしたら、天地明察の成功で気をよくして同じような題材で書いてみただけかもしれぬと思っていたが、とんでもない勘違いだった。

光圀伝を通して語られるのは「大日本史(明治時代に完成した歴史書)」の事業だ。また、戦乱が終わり太平の世が訪れた時代を書く。合戦を何百年も続けてきた国で、人を殺すことが当たり前の価値観を覆し、殺さずに済む時代とは何なのか、学問が平等に行われ繁栄が日常となる平和な時代をどのようにして創り上げるのかといった難題が問われた時代だった。

戦乱の世であれば、問題自体は意外とことは簡単なことに気づくだろう。殺されれば終わりで、殺して奪い取れば勝ち。死ねば生きるかといった単純な問題に還元され、わかりやすい。しかし太平の世を創りあげる方策はそう単純ではなく、誰もみたことがない世の中を創りあげなければいけない、難しい事業だ。そこで見出されたのが歴史だった。未知の時代を生きねばならない時に、歴史が道標の代わりになる。

戦乱ではなく、太平の世にある後世にまで残る事業を語るという点では、『天地明察』と対をなすといえる。どちらも戦乱の後の太平の始まりという、微妙に扱いにくい時代を切り取りながら、「暦」と「歴史」という題材でもって「今と地続き」の射程をもった物語として語っている。やはり「時代小説」を書きながらこれだけ現代で受け入れられる作品を書いたのはひとえにこのような「広い射程」を持ったことが大きかっただろう。

しかし──この二作品において、題材に対しての肉付けはまったく異なる。天地明察はテーマ、幹にそってそれ以外が綺麗に省かれたすらりとした傑作だが、光圀伝は光圀という一人の男の「人生」を書く。この男にとっては、先ほど述べたように歴史編纂も出会いと別れの人生の一部に過ぎない。削ぎ落とせないほどの肉が、光圀という一人の男を構築している。

本書の冒頭で語られる内容が印象的である。いわく書は手入れの難しく、人の手のかかるものであり、それゆえ人を殺しもする。たとえば火災に襲われた時に、大切な亡失を許さない書を持っていたとする。仮にそれが何十巻にも及ぶ大著であったとしたら、持ち出すこともかなわず人と一緒に焼失してしまうだろう。

書の亡失を防ぐ一番の方法は、幾つも写し、それぞれ違う場所で蔵することである。だがあまりに書が多ければ、それも不可能である。京人が、多額の金銭を支払って古今和歌の伝授を請うのもそうした理由による。教える側が、ただ金銭を欲するのではない。書を護持するために必要なのである。これこそ文書が、簡明を尊ぶ最たる理由であろう。

なるほどまったく理に適っている。文化を自己増殖し伝播する一個の生物であるという考え方をミームと呼称するが、コピーのしやすさは文化の生き残る力をあげる。と頷くのだが、本書の分厚さは750P近くであり、まったく簡明ではない。いきなり自己批判かと思えば、そのすぐあとに続くのがこういった内容である。

いわく「如在、此の二字はすなわち尊敬の義なり」というのを「如才」と略すことで「正理を大失」するというのである。つまり略されてしまうことで正しい意味が喪失してしまうものもあるのである。簡明に頼ることで失われることもある。だからこそ本書の冒頭では『書は"如在”である』と書くのである。

書は”如在”である。
まさに聖人が述べたように、もういない者たち、存在しないものごとを、あたかもそこにあるかのごとく扱い、綴ることをいうのである。

引用部の後半はまさに「歴史」が書かれる意義である。なぜこの世に歴史が必要なのか。それは遠い過去に不在となったものを、現代の者が知るための唯一の手段である。史書に記された人間は、みんな生きている。この世はそうした人々の無限の生の連なりなのだ、というのは「歴史編纂」のテーマでもあり、同時に光圀の人生を余すところなく書いた本作自身の表現でもある。

この『光圀伝』は天・地・人の主に3つの章からなっていて(途中に断章のようにして、未来の光圀による手記が入る)天・地の章で光圀は人と出会い、自分の未熟さを知り成長し、最後の人の章で、光圀はその事業を受け継いでいく。人と畜生を区別するすべは、人は受け継ぐということである。どの章も素晴らしいが、出てくる人間がすべて「凄い」のだ。一例として宮本武蔵をあげよう

この男、ほんの数十ページしか出てこないキャラクタなのに、むしろ直接的にその凄さが書かれないからこそ凄さが際立つ。台詞もほとんどないのだが、行動で見せる。少ない言葉はすべて光圀のその後の人生に影響を与えていく。思えば本作に出てくるやり取りというのは、これだけ長大な物語にも関わらず無駄というものが一切なく、直接相手の心根に響く刀のような言葉ばかりである。

本書に出てくる「偉人」とも言うべき人物たちは、みんな二つの心を持っているようにも見える。また宮本武蔵を例にあげると、血気盛んに合戦のことを教えてくれという光圀に対して宮本武蔵はとりあわない。業を煮やして「あんただって、また戦国の世になればいいと思ってるんだろう」と幼い光圀がいうと、ゆっくりと頷く。

しかしそうゆっくりと頷く表情は、惜寂の念なのだ。同時に、地獄を望んでいるという冷酷な認識だった。『人間の残忍さが剥き出しになることへの許容だった。けだものの道と知っていて進みたがっている己への哀惜だった』思えば僕らもまた戦争反対などといいながら何万人も人を焼き頃したり突き殺している武将達に夢中だし、何十万人も焼き殺す三国志が大好きだ。

このような矛盾した感情を肯定していく物語といえるのかもしれない。天地、そして人の章に至るまでに、親しい人間が次々と光圀の元を去り、あるいは光圀に消されていく。驚くほど悲しくて、最初から最後まで涙が止まらない。ただそれでも受け継がれていくものがあり、光圀の胸にあるのはつらさだけではなく、喜びがある。『虎が泣いていた。悲しくて泣いているのではなかった。』は冒頭の文章だが、本書は光圀がこの境地にいかにしてたどり着くのかという物語である。

天地明察』でもそうだったのだけれども、本書は冒頭の場面がそのままラストシーンにつながっている。しかし円環構造というわけではない。最後の場面から書き始められるのはこれが「史書」であることの証左であるのだ。歴史は今に至るまで連綿と受け継がれてきた。歴史の先にあるものは、人の生である。この物語は、時代小説と歴史を扱って僕らの人生にそのまま繋がっているのだ。

僕にとってはオールタイムベスト級。これほどの作品に出会える機会は、滅多にないぞ。信じて読んでくれ。

光圀伝

光圀伝