基本読書

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物語の射程についてと神林長平イノベータ論

SF作家である神林長平先生のロングインタビューが掲載された。⇒「若い人」たちの健闘を祈っている〜SF作家・神林長平インタヴュー:WIREDジャパニーズSFスペシャル【1】 « WIRED.jp 

この記事へのブックマークコメントで僕は「あらためてなんで世界的作家になっていないのかとても不思議である(翻訳はされているけど)。これだけの射程で小説を書いている人がどれだけいるのか。意外といるか。」と書いたのだが、これだけ書いても意味が伝わらないかと思ったので補足を書く。

ある文学作品が「射程」が広いと僕がいう時それはどういうことを指しているのか? といえば作品内で表現されている記号的抽象的表現が、まったくことなる時代、まったくことなる年代、まったくことなる状況で悩んでいるかもしくは悩んですら居ない人々にも共感もしくは感動といった優れた文学が与える「良いこと」が起こることである。

たとえば尖閣諸島の領土問題が今話題になっている。尖閣諸島をテーマにした小説があったとしよう。なんとなくだけど、これは20年後には読まれていないだろうという気がする。しかし領土問題というのは何時の世も起こっているものだ。もう少し抽象のレベルを高くすると、「これは俺のだ」「いや俺んだ」という「所有権の問題」にまで発展させられるかもしれない。

そのように問題のレベルを代えていった時に、大なり小なり異なる年代異なる国異なる状況にいる子どもなり大人なり、他の人々の悩みにも当てはまるだろうか? そしてそれがたとえば200年後の少女なりが読んだ時に、とても強い共感もしくは感動を覚えたら、(これは物語の意味がこの二つだけにあるといっているわけではない。ただの一例)200年後の少女はその作品をなんて射程が広い作品なんだと認めるのではないか?

逆に言えば200年後には見向きもされず、読んでも何一つ引き起こせないとしたらその作品の射程はそこまでだったといえるのではないだろうか。過去の文学作品が未だに生き残っているのをみるに物語というのは、その気になれば200年300年といった時間を軽く飛び越えて語られ続けるというのは実証されている。

神話だって物語なのでその気になれば1000年2000年生き残る物語も構築不可能ではないのである。それはたとえ今のようなやたらめったら物語が乱造される時代でも変わらないだろう。「物語は1000年2000年生き延びることが出来る」前提にたったときに「じゃあこの物語は1000年2000年先でも読まれるだろうか」という問いかけが当然出てくるだろう。

100年200年レベルで物語を書いている人は、結構いると思う。最近デビューしたばかりの宮内悠介さんもインタビューでそう語っていた⇒「かけがえのない錯覚」を求めて〜SF作家・宮内悠介インタヴュー:WIREDジャパニーズSFスペシャル【2】 « WIRED.jp ただ神林先生の射程はもっと広く、そして深い。

広いとは単純に時間の射程が長いという意味であり、深いとはどういうことかといえば抽象のレベルを落とし具体性を増すことを深いという意味で言っている。難しいのは抽象のレベルをどう設定するのかということだ。抽象のレベルについて少し書こう。

たとえばパディという犬がいるとする(ついこの前死んだうちの犬だ。ビーグル犬。ブサイクだけどかわいかった。悲しい時辛い時いっぱい助けてもらった。僕の目の前で痙攣して死んでしまったのだ。この話どうでもよかった。)パディと同一の存在はいない。けれど我々はこのパディから同一の特徴(形・機能・習慣など)を抜き出して(抽象して)これを「犬」と分類する。

だから僕が「パディという犬がいる」といったとき、パディ固有のブサイクだとか僕にとって特別な存在だとかいう差異は、消してしまって純粋に犬と定義されている分類上、共通の部分だけを抜き出すのである。抽象レベルが最低なものはたとえば原子レベルでの構成であり、たとえば「ペット」という抽象に置き換えた時きわめて高いレベルの抽象となり、パディのほとんどすべての特性が無視されることになる。

抽象が高くなるとはようするに僕がパディといって思い浮かべる個体からどんどん要素を落としていくことになる。この一番いい例は数字で、家が4件あるといった時に「それがどんな家か」という情報は削ぎ落とされすぎて数に──高いレベルに抽象されているのである。それがどんないい意味があるのかといえばこれもまた数字の特性を考えれば明らかで「より多くの人に伝達が可能になる」のである。

じゃあ高いレベルの抽象で話をしていればそれだけ後世に残る物語になるのかといえば、そうではない。もちろんんそうした傾向はあるが、高すぎる抽象レベルで話し続けるとぶっちゃけ何か内容があることを言っているのか何も言っていないのか区別がつかないのである。聖書でもそうだがあいつらの言っていることはなんだかあやふやだが最低限解釈はできるようになっていて、勝手に深い意味を読み取ってなんとなくすごい気がするのである。

あやふやに書きすぎても駄目だし、詳細に書きすぎても普遍性を失う。ようするに抽象のレベルをいかに最適に調整するかという問題なのだ。この抽象のレベルを高いところから低いところへ、自由自在に動ける人。そのような能力を持っている作家は、きっと僕の言う「射程の広い」物語を書くことが出来るだろう。で、なんかめちゃくちゃ長くなってしまったけど僕が言いたいのは神林長平はその能力が凄まじい作家であるということである。

たとえば『膚の下』という作品がある。人間に創られたアートルーパーが、機械人と人間の間にいる自分達のアイデンティティを求め、独立し、自分達の生き方を模索する話だ。神林先生はこれを「膚の下はアトムなどに代表される、「意識をもった機械」たちが未来に生まれてきたときに、聖書とするようなものにしようと思って書いた」と講演会で語っていた。

最新長編である『ぼくらは都市を愛していた』も同様に未来を見据えた射程の長い物語だ。必ず将来は情報を通信するような装置を体内に埋め込み、自分と身体との結びつきが弱くなっていく。その延長線上で、WEB上に人格が展開するようにになったときに、その基盤を揺るがすような──本書では情報震と言われている──が起こった時に、世界は崩壊するだろうという前提がこの物語にはある。

で、これは僕が勝手に読み取ったことだが、そうやって崩壊した世界で、人々はどのゆにして生きていけばいいのかという指針が『ぼくらは都市を愛していた』にはある。

具体的に未来の状況を想定し、なおかつその時に必要とされる物語を書く。至極具体的でありながら、遠い未来のことなので想像もしづらいが、「未来にあって当たり前の物語」を神林先生は書いているのである。その神話的な面についてまで触れていると分量が多すぎるので割愛するが。ということを書いていて、上杉周作さんという方がイノベーションについて書いていたことを思い出した。

いわく『アップルで働くまで、イノベーションというのは「今にない、新しいものを作ること」だと思ってた。でもそれは違って、イノベーションというのは「未来にある普通のものを作ること」なのです。この違いを理解できるまでかなり時間がかかった。』こちらから引用⇒イノベーションとは「未来にある普通のものを作ること」

であると。今はない当たり前のことを書くことがいちばんむずかしいのかもしれない。神林先生がやっていることはまさにその物語におけるイノベーションのようなものだなと。未来に出てくるであろう物語を既に書いているという意味で。しかしどうだろう。ここまで書いてきて思ったことだが、僕の最初のはてぶコメントには『あらためてなんで世界的作家になっていないのかとても不思議である(翻訳はされているけど)。』とも書いた。

ひょっとしたら具体性の為に、優れてSF的想像力を発揮していても村上春樹のような世界的作家に──世界的作家でなくてもせめて日本を代表する作家になれていないのかもしれない。日本を代表するとかは特に定義を考えずに言っている言葉なのであれなのだが……。どうなんだろう? まあいいか。この後が続けられそうだったらまた後日書きます。

余談というか本題というか。『膚の下』は僕にとって多分この先もずっと変わらないのオールタイムベストワン小説であります。この小説がなかったらこのブログもなかったのです。『膚の下』を読んでいてもたってもいられずに作ったのが、このブログなんだから。世界的作家だろうが日本を代表する作家だろうがなんだろうが、実をいうとどうでもよく、僕は深く感謝と敬愛を持っています。本を読んで人生が変わることって、あるんだよね。読むといいよ!

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚の下 (下)

膚の下 (下)