基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

獣の奏者を読んでなぜファンタジーが好きなのかについて考えた

先日(といっても二ヶ月ほど前だが)上橋菜穂子さんの『獣の奏者』が講談社文庫として4冊すべて出揃った。素晴らしい表紙で本屋に最初の2冊が並んでいた時から読みたかった。ついにこうして4冊揃い。読んでみたのである。ひとことで言えば、素晴らしいファンタジー作品だった。昨日読み始めたのだが、読むのが(世界に浸るのが)止まらなくて、ご飯を食べている時とトイレに行く時だけ現実に戻ってくるのだが「早くあの世界に戻りたい」とかきこんで急いで本に戻るという有様だった。

少し本作の凄さについて語る前に僕にとってのファンタジーとは何なのかについて考えてみたい。僕はファンタジーが好きだ。でもSFも好きだ。歴史小説も好きだ。ノンフィクションも好きだしエッセイも好きだ。でもその好きは「本が好き、文字を読むのが好きだから」と一言でまとめられるようなものではなく、それぞれ別個の理由があって好きなのだ。

SFは自分の想像力を拡張し、一変させてくれるのが好きだからだし、歴史小説は過去に思いを馳せてハマりこむ。ノンフィクションは世界にはまだまだ自分が知らないことがあるし、そこに書かれていることさえ本当かどうかはわからないという不思議さを教えてくれる。エッセイは人間の発想の自由さが楽しい、どんなことを書いてもいいのだ。

でもまあ、たとえばSFだから過去に思いを馳せれないわけではなく、一般的な傾向の話だと思って欲しい。基本的にすべての作品は他ジャンルの要素を内包している。ジャンル分けなどは誰かが勝手に決めたものだから、たいした意味なんて無い。とはいうものの、傾向があることはたしかで、その意味で言っていると思って欲しい。

さて、僕がファンタジーを読むとき、何を楽しんでいるのかといえば、それは「架空の世界に浸る」ことが楽しいのではないかと思う。僕達の生きる現実は醒めていて、とてもつらい時がある。奇跡は起こらないし自分はヒーローではない。物語を読む理由には一種の現実からの逃避という側面が間違いなくある。もちろん僕らは物語から何かを得て戻ってくることもあるわけで、それは休息だったり活力だったりする。つまり、肯定的にいえば冒険だ。

その「現実とは違う世界へ冒険する」効果が、もっとも高いのが僕はファンタジーなのではないかと思う。ファンタジー以外の物語は、物語といっても基本的には現実からの地続きだ。しかしファンタジーは、架空の世界を創造する。架空の文化があって、架空の人々がいる。奇跡の力があって、現実にはいない動物たちがいる。僕はこの『獣の奏者』を読んでいる時にたしかに、現実のことを完全に忘れてこの世界に入り込んでいた。

現実とはまったく違う存在の仕方をした世界での冒険譚を読んでいると、すっかり現実のことを忘れて没頭してしまう。ご飯を食べていた時もトイレに行った時も一刻も早くあの世界に戻りたいと思ったように。思えば子どものころはそうやって熱中したことが多くあった。大人になってからは、こうした経験はなかなか得ることがない。注意しておかなければならないしがらみが多くなってくるからだろうか?

でも獣の奏者を読んでいる時は何も考えずにただ本の中の時間にひたっていた。とてもとても幸福な時間だった。読んでいる間、自分が大人だとか子どもだとかを意識することもなかった。時間的な隔たりさえも、優れたファンタジーは完全に消滅させてみせる。読み終えた時にはえらく時間が経っていて、おかげさまで僕は今日眠くて仕方がなかった。

なぜファンタジーが好きなのか。その問いの答えは「架空の世界に、存分に浸れるから」となるのかもしれない。獣の奏者は物語もまた優れたものだったが、匂いとか、獣とか、風景といった、「世界そのもの」が心地よかった。表紙を見てもらえればわかると思うが。読まなくても部屋の中にかざってあるだけでにやにやしちゃうかもしれない。詳しい紹介は次のエントリで書く。

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

獣の奏者 3探求編 (講談社文庫)

獣の奏者 3探求編 (講談社文庫)

獣の奏者 4完結編 (講談社文庫)

獣の奏者 4完結編 (講談社文庫)