基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「やっていて楽しいこと」に気付くためには適当に生きるのが良い

世の中には「書く」ことが好きで好きでしようがないブロガーがいる - シロクマの屑籠

この記事を読むと、基本的には言及とかしないんですけど、これだけ何の利もない文章を書き続けている身からすればいろいろ思うところなどもあるのです。どういうことを考えていたのかといえば、僕は書くのが好きなのかなあとか。ネットがない状況でもノートに延々となんか書いているから、たぶんブログがこの世から消滅しても書くと思う。でも手で書くと疲れるし効率が悪いからキーボードが無くなったら書かないかもしれないなあとかそういうくだらないことです。

ノートに書いていると極力楽しようとして文字数が少なく詰まった内容になるのでその点はいいかもしれない。しかし僕はタイピングしている感覚が好きだからなあ。手がぱしぱし動くときの音、目の前のディスプレイに自分が打った文字が次々と射出されてくる感覚。文字を書くというとデジタルな意味合いが強くなってしまうけれど、意外と書くのが好きな人達はこういうアクション的な楽しみも強く求めているのではないかとも思う。

話がそれた。書きたかったのは「どうして書くことが、好きになったんだろう」ということだ。ブログを始めてからずっと、僕は人に読まれるかどうかとはまったく別問題で、書くのが楽しいから書いている。ぶっちゃけアクセスなんてほとんどない。うまい文章でもないし、視点が鋭いわけでもない、クズみたいな記事ばかり。それでも書くのだから、ただたんに書くことが趣味といっていいだろう。

このことに気が付けて、また環境が整っていて幸運だったと思っている。たとえば「キーボードがない時代」だったら、僕はたぶんどんなに好きでも書いていなかったと思う。字が下手だし、書くの疲れるしめんどくさがりだし。もちろんそれだけではない。僕はこうした感想ブログをやる前に日記みたいなブログを書いていたこともあるのだけど、そっちは長続きしなかった。

なぜかといえば書きたいことがなかったからだろう。自分の日常的な話なんか書いたってしょうがないと思っていたし。今こんなに書いて、楽しいと思っているんだから、その時点で何かが産まれてもよかったはずだけど、そうはならなかった。今以上にくだらないことを書いて、二三回更新したらそれで終わり。でもある時、『膚の下』という小説を読んで、この本の感想を書きたい、と思って新たにブログをつくった。

読んで衝動的につくったわけだから、計画性も何もあったものではない。でもつくって、そしたら意外といくらでも書けた。日記を書いていた時はかけなかったのに。形式が合っていたわけだ。本を日常的に読んでいて、その本について思ったことを、キーボードで、ブログに書く。表現形式と、表現の道具と、表現の場所と、そしてそのサイクルを回すための燃料の補給。たぶんそのうちのどれが欠けていても僕は「文章を書くのがなんか好きだ、楽しい」っていうシンプルな事実に気づかなかったはずだ。

このブログを始める前から僕は本を読むのは好きだったから、燃料の補給は元々あった。場所も、ブログやHPは随分昔からあった。道具もあった。ないのは形式だけだった。でも最初から全部があったわけじゃない。1つずつ1つずつ条件が整ってきて、ついに全部が揃って、うまくやれるようになったわけだ。しかも「自分は文章が書くのが好きだ」などとは、、実際にブログをはじめて更新してみるまではほとんど意識することもなかった。

この話には何か教訓があるだろうか。「やりたいことを、考えて探しても、自己分析しても意味が無い」とかかな。考えても意味はないのだ。たとえば30年前に僕が自分をどんなに探しても「文章を書くのが好きだ」という結論は導き出せなかっただろう。適当にやってたら最終的に条件が整って、「なんか楽しいなこれ」と発見したという事実があるだけだ。

しかもそれに気付く過程って、自分にどうにか出来る要因なんてないものばかり。そういうわけで適当に生きて、適当にいろんなことを試していれば、適当に「なんか楽しいなこれ」ってのが見つかるかもしれない。僕は文章を書くことだけが趣味ではないけれど、別の「なんかやっていて楽しいこと」もやっぱり深く考えないで適当にやっていたら見つけたものだ。

かなり適当な感じで書いてきたけれど、真面目な話をすると適当に生きるとは「自由であること、心を開くこと」であるといえる。偏見なく物事をみて、適当に手を出し続けてみる。自分の好きなものは「これだけだ」と決めてしまわない。知らない人や知らないことと、予想外のものとの接触頻度を多くすることだ。

これについてヘッセのシッダールタから引用しよう。この本は薄いくせに凄まじい本なので、偶然の出会いを大切にしている人はこれを僕の言う「適当な出会い」だと思って手を出して、損はないと思うのだがこの本にはこうある。

「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、ひとつの目標を持ち、目標にとりつかれているので、何物をも見出すことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」

適当に生きるとは、ちゃらんぽらんに生きることではなく、自由であること、心をひらいていること、目標を決めないこと、なんでも受け入れること、だといいたい。「自分のやりたいこと、やると楽しいこと」は、あるのかもしれないが状況が整っていないこと、形式がわかっていないことも多い。「毎日更新する!」と思ってこのブログをはじめたわけではない。ただ衝動的にはじめただけだ。でもなんだかウマくハマって、何年も更新を続けている。

だから楽しいことを見つける秘訣は、適当にいろいろやってみることだろう。

シッダルタ (岩波文庫)

シッダルタ (岩波文庫)