基本読書

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科学の存在理由、科学の目標とは

有名な書評ブロガーの小飼弾さんはだいぶまえに⇒404 Blog Not Found:ほんと馬鹿 - 書評 - 科学的とはどういう意味かこの記事の中で森博嗣さんの『科学的とはどういう意味か』の最後の方に書かれた「科学の存在理由。科学の目標とは、人間の幸せである。」なる記述を取り上げて、批判している。実は最初に読んだ時からずっと違和感があった(小飼弾さんの記事を)。

しかし違和感があったものの、よくわからずそのまま通り過ぎていたのだ。それが今日中谷宇吉郎さんの『科学の方法』を読んでいたら森博嗣さんがどういう意図でもって「科学の存在理由。科学の目標とは、人間の幸せである。」を言ったのかがようやく理解できた(ちなみにこの科学の方法は、森博嗣さんの小説で引用に使われている一冊でもある)。いまさらだが書いてみたい。

小飼弾さんの主張は科学は存在理由など必要としない。そこにあるものを知りたいという欲求でもって明らかにしていく過程こそが科学なのだと、ざっくりまとめてしまえばそういうことだろう。そこには人間の幸せは関与せず、ただ自然における真理だけがあると。こういう考え方は「そう簡単ではない」と『科学の方法』では言うのである。

ものにしても、法則にしても、その実態とか、ほんとうの姿とかが、自然界にあって、人間がいろいろと調べているうちに、それらを見つけ出すというふうに考えられ易い。ちょうど宝探しのような感じをもたせるおそれがある。ものの実態とか、法則とかいうものが、土の中にうもれていて、掘っていると、そのものずばりがそこにあって、それを見つけたというふうに考えられ易い。しかしこの問題は、そう簡単ではないのであって、そこに科学の本質の問題があるのである。

わくわくする記述ではないか。またほんとうの姿が自然界にあって、それを解き明かしていくことが科学なのではないか? というのは僕も納得はしていたのだ。しかしこの問題はそう簡単ではないという。なぜならそうした法則や、自然現象とか、自然の実際の姿は、これらはすべて人間が見つけるからである。それは科学が見つけた自然の実態であって、科学の眼を通して見つけた自然の実態なのだ。

人間が物をみるためには、人間の眼を通す以外に方法がないように、科学が自然を見るには科学の眼を通じて見るほかない。科学の思考形式、科学の実験形式を通して自然を認識し、その上に科学が成り立っている。思考形式としては、ものを分析したり、それを統合したり、因果律に従って順序を立てたりするやり方がある。それこそが自然をあるがままに解釈することではないかと一瞬反論しそうになるが、それはここから説明しよう。

因果律とは何かという話を少ししよう(といっても科学の方法に書いてあることだが)棒で頭を殴れば、誰でも痛いと感じる。痛いというのが結果で、原因は棒で頭を殴られたことだ。しかし棒で殴られたことは痛いと感じることの原因ではなく、頭の通っている神経の先に歪みがかかったのが原因とも言えるだろう。しかもそれさえもまだ原因でなく、神経の歪みが脳に伝わったことがさらに本質的な原因といえる。

それさえもまだ根本的な原因ではない。脳に伝わったことが原因なのではなく、脳の細胞が刺激を受けたことが原因なのである。つまり痛いと感じる原因は脳の細胞が刺激を受けたこと自体だ。なんとも無意味な問い返しのようにも思えるが、こうしたそれは原因じゃない、これこそが根本的な原因であると考えていくこと、これ自身が因果律という思考形式である。

空はそのままだと形がないが、四角い窓からみたら四角い空になるのと同じであり、科学の思考形式によって自然をみたらその見方でみた自然が見える。科学の思考形式以外で自然をみたら、まったく違う自然が出てきてもおかしくはない。科学で自然を解き明かすとはいうが、科学で見える自然の実態を作り上げていくといったほうが正しい。

科学の場合の評価方法は、ほんとうであるか、そうでないのかをものさしで判定していくことで出来る。じゃあそのものさしは何で出来ているのかといえば、その時までに得られている科学の知識の集積によってである。しかし物を見ること自身はさっき書いちゃおうに科学の思考形式を通じて行われるわけであって、科学の本質は人間と自然との共同作品だと言える(受け売りだ)

科学の進歩によって自然の実態がだんだん深いところまでわかってきたという言われ方がされる。実際小飼弾さんもそういう考え方で科学を捉えているように見える。アインシュタイン相対性理論ニュートン万有引力を例にとって科学の方法では「科学の進歩とはそれだけではない」と教えてくれる。これもまた科学の存在理由について興味深い内容なのでもう少し書いていこう。

アインシュタインの相対性原理が出て、ニュートン力学がくつがえされたと言われることがよくある。僕も実際そのような捉え方をしていた。しかしそうした言い方をするといかにもニュートン力学がまちがっていて、アインシュタインの相対性原理がただしいという印象を受ける。実際はそうではなく、ニュートン力学では説明のつかなかったいくつかの点(水星の軌道の変動とか)がアインシュタインの相対性原理では解けた、というところに相対性理論の良さがある。

ようはどちらかが広く自然現象の説明に使えるのかという点が問題になっている。新しい理論が出てきたから、前の理論(相対性原理とはまったく異なる解釈をするニュートン力学)は全部嘘かというとそんなことはない。ようは僕らが自分の生活の中で利用しやすいものはどっちか? という話で、本物とか偽物という問題ではない。

たとえばアインシュタイン相対性理論が出ても、日蝕の観測はニュートン力学で全部計算しているというように、使い勝手のいい法則を採用する。電気の伝播も遠隔作用(間に何もなくても伝わる。電気は物体の表面にある)と近接作用(間に電気があると考える)という考え方があるが、この全く異なる二つの解釈が、どちらでも現実をうまく説明できる。機械の設計をする時にどちらが便利かという問題なのだ。

さらにいえば近接作用で普段僕らが使っている電気を考えると非常に難しくなる。今はたいてい針金を伝わる電流だが、これは近接作用で考えると針金の周囲の空間のゆがみが時間的に変化するものと捉えることが出来る。しかし電気が針金の中を流れると考えたほうが圧倒的に便利だ。簡単に計算ができる。

非常に長くなってしまったような気がするが科学の存在理由とはつまるところ「どれだけ人間に寄与できるか」であることが、納得しやすくなっているだろう。『科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が、すなわち科学の見た自然の実態なのである。』

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

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科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

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